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特集1 主役登場

バイオ・ソフトマテリアル研究の最前線II

チップ上で心臓を再現する

手島 哲彦
NTT Research, Inc.
Medical and Health Informatics(MEI)Laboratories
Senior Research Scientist(主任研究員)

ヒトの身体は複数の臓器・器官から成り、37兆個ほどの細胞から構成されています。その1つひとつの細胞は外部からのさまざまな化学的・物理的なシグナルを受容し、それらに応じて適切な生理応答を示しますが、その細胞に対して影響する仕組みはいまだ解明されていない謎に満ちています。私は大学生のころより細胞の持つ多様な謎に魅せられ、獣医学や細胞生物学、バイオイメージング技術などを学んできました。そんな私がNTTで細胞の研究を継続しているのは、細胞をデータや情報の宝庫であるととらえることで情報通信に寄与する研究を展開できると確信したからです。もし細胞の生理応答を高感度に検出するセンサを開発し、生命動態にかかわる情報の時空間的かつ定量的なデータベースを構築できれば、動的システムとしての生命の理解を深化でき、将来的には病気の治療や予防に役立てることができます。
生体情報を取得する高精度のセンサやデータ解析プラットフォームを開発するためには、基礎的な生物学の手法だけでなく、材料科学や微細加工技術、バイオインフォマティクスなどの物理、化学、情報のさまざまな知見を結集することが必要不可欠です。私の前職であるNTT物性科学基礎研究所(物性研)では新機能材料やナノテクノロジのエキスパートの方々から最先端の知見やノウハウを学ぶことができました。またhitoe®と呼ばれるウェアラブルデバイスの研究開発チームでは、機能性材料の基礎研究から生理学的データの解析手法、商品化に至るまでのダイナミックな研究開発の展開を目の当たりにしました。その貴重な経験を基に、NTT Research,Inc.では、2020年よりミュンヘン工科大学において研究拠点を立ち上げ、電子工学や化学、生物物理などさまざまなバックグラウンドを持つ研究者や大学院生と協力して、循環器系バイオデジタルツインを支援するバイオセンサの開発に取り組んでいます。
私が現在研究のターゲットにしている心筋細胞はその範囲がとても広く、単一細胞レベルから体内にある実際の心臓組織やその周囲の迷走神経組織など臓器レベルにまでわたります。中でも実際の心臓ほど複雑な形状ではなく、ヒトiPS細胞由来の心筋細胞を三次元的に組み立てて分化させた細胞の凝集塊である心臓オルガノイドは、ミニチュア心臓として機能するため、創薬や個別化医療の疾患モデルとなるバイオデジタルツインの構築に不可欠です。ここで特筆すべき点として、心臓オルガノイドを単なる球状だけでなく、シート状や筒状、円錐状など特異的な三次元形状に加工したり、結節や心筋の細胞を所望の位置にパターニングしたりすることで、より本来の心臓に近い電気生理的振る舞いを誘導できることが挙げられます。
現在、私たちのチームでは、心臓オルガノイドを任意の形状に組み立て、そこから微弱な細胞外電位を計測し、時系列で三次元マッピングできる多電極アレイシステムの開発に取り組んでいます。これにより、各種薬物の作用に対して濃度依存的に変調する電気シグナルの振幅や頻度を計測データベース化し、不整脈モデルのミニチュア心臓を用いた病態研究や薬効評価へと応用しています。しかし、心筋細胞の分化誘導手法やペースメーカ伝導系を誘導する構造最適化など、いまだ改善するべき点も多く、技術的な課題が山積している状況です。そのため、活発な議論ができるダイバーシティの高いチームを構成し、これまで培った材料化学、微細加工技術、電気化学、情報工学などの工学的アプローチも積極的に取り入れることで、独創的な心臓オルガノイドの操作技術を通じたチップ上でのミニチュア心臓の再現に日々取り組んでいます。2030年を目処に電気生理学的な計測データベースを構築し、循環器バイオデジタルツインのための心臓の変調モデルを実現して再生医療分野に技術革新をもたらすことができるよう、引き続き共同研究先の物性研やハーバード大学との連携をさらに強化しながら、研究を推進していきます。