2025年12月号
挑戦する研究者たち
トップアスリートの脳と身体のメカニズムを解明し、選手の パフォーマンス向上、ひいては人のWell-beingに貢献

極限のプレッシャーの中で、心と身体を自在に操り、高いパフォーマンスを発揮するトップアスリートたち。そのベースとなる脳と身体のメカニズムを科学的に解明することは、スポーツ選手の練習方法の充実はもちろん、私たち一般人の逆境への対応力やWell-beingの向上にも本質的な示唆を与えるものといえます。認知神経科学研究の第一人者であるNTTコミュニケーション科学基礎研究所 柏野牧夫フェローは、さまざまなスポーツ分野のトップアスリートに寄り添い、緊張感あふれる過酷な競技のオンサイトでオリジナルの計測を実現し、斬新な知見を数々発掘しています。今回、最新の進捗状況を紹介していただくとともに、新たな研究分野を開拓していく思いや日頃の活動で心掛けていることなどを伺いました。
柏野牧夫
フェロー
NTTコミュニケーション科学基礎研究所
トップアスリートの脳と身体を実戦本番で測る
現在、取り組まれている研究内容について教えてください。
私の専門は、人間の認知や行動の特性を定量的に解析することです。もともとはスポーツの分野に取り組んでいたわけではなく、聴覚や多感覚知覚などを対象としていました。スポーツを対象にするようになったのは10年くらい前からで、トップレベルの競技団体やアスリートの方々と協力しながら研究を進めています。
スポーツ科学といえば、運動生理学やバイオメカニクス(生体力学)といった、「身体」に関するものが主流です。それに対して私たちは、「脳」に注目しています。いかに優れた身体でも、脳がなければ動きませんからね。一方で、脳だけを切り離して扱うことはできないとも考えています。脳と身体の相互関係にこそ、アスリートの優れた心身技能の本質があるというのが、私たちのスポーツ研究に通底する考え方です。
進行中の研究テーマを大きく分けるとすれば、1つは「心技体」における「技」、つまり技能の熟達に関する研究です。例えば、野球のバッターがボールを打つとき、視覚で得た情報に基づいて全身の動きを制御するという、極めて複雑な脳の情報処理が行われています。その情報処理の詳細はどのようなものか。トップレベルのバッターは、そのどこが優れているのか。こういうことが分かれば、バッティングに対して、パワーやフォームとはまた別のアプローチがみえてくるわけです。
もう1つは、「心技体」の「心」、いわゆる「メンタル」に関する研究です。練習ではうまくできていたのに、本番では緊張のあまり失敗してしまった。あるいは逆に、本番で「ゾーン」に入り、思いがけない力を発揮できた。こういうエピソードをよく耳にします。そういうとき、脳や身体では何が起きているのでしょうか。精神論ではなく、神経科学的なメカニズムが分かれば、理想的な状態をシステマティックにつくり出すことができるようになるかもしれません。
このような研究を進めるうえで、私たちが重視しているのは、実験場面のリアリティです。可能な限り、実際の試合か、それに準じる状況で計測を行います。私たちも、スポーツを対象とするより前は、統制された単純な条件下で実験を行っていました。それが基礎研究の常道であり、厳密な結果は得られるのですが、得られた知見が、そのまま複雑な実際場面に適用できる保証はありません。困難ではあっても、現実に何が起きているかをとらえることにチャレンジしたいというのが、この分野に参入した動機の1つでもあるのです。
リアリティというのは、実験環境だけでなく、問題設定についてもいえます。研究のための架空の問題ではなく、アスリートやチームの直面している問題の中から研究すべきことを見つけるようにしています。もちろん、認知神経科学の観点からみて新規性があるか、解析の俎上に載るかというフィルタは通すのですが、成果はアスリートに還元したい。彼らは人生がかかっているわけですから、単離した要因について有意差はあるが効果量はわずか、という論文では意味がありません。
私たちはスポーツという分野においては後発組で、最初は試行錯誤の連続でしたが、10年間経ってみると、なんとかスタイルが確立してきました。世界的にみても独自のポジション、芸風ではあると思います。
スポーツ競技のオンサイトで生体情報を正確に実測するのは難しいですね。
競技中に計測を実施しますので、選手の皆さんへ邪魔をしてしまい、失敗につながっては本末転倒です。ですから、計測メンバーのオペレーション、パフォーマンスに干渉しない計測手段の選択、計測品質の確認など、用意周到な準備を心掛けています。それでも、いざ当日になってみると、想定以上に過酷な状況だったということもよくあります。スノーボードビッグエアの大会での計測(図1)では、テント業者にも断られた吹雪の中で、急遽自分たちで計測用のテントを設営したこともありました。
こんな環境で、20数名の参加選手の脳波、心拍、眼球運動、唾液中ホルモンなどの多項目の計測を一気にやろうというのですから、まっとうな神経科学者なら、ありえないと言うでしょう。脳波1つとっても、脳波計さえあれば誰でもなにがしかの信号は取得できるでしょうが、それだけだとほとんどはノイズです。専門誌に掲載できるクオリティで計測、解析するには、相当のノウハウが必要です。そんなノウハウは、世界中、なかなかないでしょうね。
動作の計測にしても、今はコンピュータビジョン技術で映像からモーションキャプチャを行うことが一般化していますが、通常のやり方では空中で華麗なトリックを決めるスノーボーダーの動作はとらえられません。動きが複雑なうえに、ウェアのだぶつきが大きいからです。スノボに限らず、過酷な条件下でも信頼できるデータを取得できる計測法の開発も、私たちの仕事の一部です。そして何より、トップ選手たちが積極的に協力していただけるよう、強固な信頼関係を構築していくことが大切なポイントです。

他のスポーツでの計測についても教えてください。
eスポーツでは、格闘ゲーム上級者どうしの対戦で両者の脳波を同時計測しました。その結果分かったのは、試合をする直前から、脳の状態としては勝負がある程度ついているらしいということです。試合の直前8秒間の脳波を調べてみると(図2(a))、結果的にその試合に勝つときと負けるときとで活動が大きく異なる部分があることが分かりました(図2(b))。そこで、試合直前の脳波データを用いて機械学習で勝敗を予測したところ、約80%もの的中率が得られました(図2(c))。
ここで重要なのは、「番狂わせ」も予測できるということです。AI(人工知能)が流行している今日、機械学習でさまざまなゲームの勝敗を予測すること自体はあちこちで行われていますが、それらは基本的に、過去の対戦履歴に基づくものです。しかし、これでは過去の対戦履歴から逸脱した予想は原理的に不可能です。ところが私たちの方法だと、番狂わせになる場合であっても、的中率は下がりません。次の試合では弱いはずの方が勝つということが、やはり8割当たるのです。「過去の結果がどうであったか」ではなく、「対戦直前の脳がどうであるか」という選手の最新の生体情報を使うことにより、より正確な予測ができるというわけです。
これは脳だけを対象とした研究でしたが、脳と身体の関係に注目した研究も行っています。オリンピック選手などを擁する日本ライフル射撃協会の方々と共同で、エアライフル競技におけるスコアの善し悪しと、脳や身体の状況との関係について解析しています。エアライフルは75分以内に60射して合計点を競うのですが、10m離れたところでのミリ単位で勝負を争っているため、「人はこんなにも動かないものなのか」と思わせるほど、選手が極限までじっとしている競技です。
この研究では、脳波、心拍、呼吸をはじめ、全身からさまざまな生体信号を計測し、それらの相互関係とスコアの関係を分析しています。まだ論文未公刊なので詳細は控えますが、脳と心臓の関係性がスコアに強く影響するという新たな発見がありました。脳と心臓の関係は神経科学の分野においてホットトピックスの1つなのですが、私たちの研究は先行研究とは全く異なるパラメータに着目しています。
興味深いのは、選手自身、そのようなことが自分の脳や身体で起きていることに気付いていないということです。あるトップ選手は、調子が最高に良いときは、「引き金を引こう」という意志なしに、「気付いたら引いていた」という感じだと教えてくれましたが、まさにそのような状態に対応した活動をとらえているのかもしれません。側から見ると究極まで動かないように見えますが、選手の内部では劇的な変化が起きているのです。

目は脳の状態を物語る
目の挙動に関する研究について教えてください。
目は見るためのセンサですが、目の挙動、例えば視線、瞬き、瞳孔径変化などは、脳での認知情報処理を反映して変化するという側面もあります。私たちは、こうした目の挙動と脳(認知)の状態との関係について、実験室レベルから継続的に研究してきました。
それをスポーツの実戦に展開した研究の一例が、国内最高峰のカーレースである「全日本スーパーフォーミュラ選手権」での計測です。このレースは最高時速300キロを超える世界で競われ、サーキットを何十周もしたすえに秒以下の差で順位が決まるようなシビアな戦いです。車両の性能差がないため、ドライバーの技量やチーム戦略の比重が大きく、リスクを冒して追い越すか否かといった瞬時の判断が勝負の鍵を握ります。
そのような判断や集中力といった選手の内部状態の変化を客観的にとらえたいのですが、レース中に脳活動を計測するのは困難です。そこで私たちは、瞬きに注目しました。選手たちは無自覚的に瞬きをしていますが、その頻度やタイミングに脳の状態が反映されているかもしれません。選手のヘルメットに小型カメラを埋め込んで計測したところ、瞬きのパターンに、驚くべき規則性があることが分かりました。
図3(a)、(b)は各選手(A、B、C)が周回コースのどこで瞬きをしているのかを示しています。多少の個人差はありますが、3人とも似た個所で瞬きしており、個人内での再現性も高いことが分かります。さらに解析すると、このような瞬きのパターンを生み出す3つの要因が明らかになりました(図3(c))。
1番目は個人差で、瞬きの多い人も少ない人もいますが、全員トップレベルの選手で、パフォーマンスには関係しません。2番目はラップの速さで、高速で攻めているときほど、つまりリスクや集中度の高いときほど、より瞬きのタイミングのパターンが明確になります。
3番目は車両加速度です。前後方向、左右方向の車両加速度を走行全体でプロットすると、左のようなハート型が現れます。右は、その中で瞬きが起きた時点だけを抜き出したものですが、ほぼ原点(加速度0)付近に集まります。つまり、瞬きは、コーナリング時や、強くブレーキをかけているときには抑制されるのです。これもリスクや集中度と関係するかもしれません。
このような現象の背後にある脳のメカニズムについてはまだ解明すべき点も多いのですが、将来的には、過酷な環境でも計測可能な情報から脳の状態を推定することができるようになるのではないかと考えています。
ところで、このレースでは、目以外の生体情報も計測しています。その1つがホルモンで、走行の前後で選手の唾液を回収し、コルチゾールやテストステロンの濃度を調べています。コルチゾールは副腎皮質ホルモンの一種で、ストレスに対抗する機能を持ちます。また、不安を高め行動を抑制する脳の働きと関連することが示唆されています。一方、テストステロンは男性ホルモンの一種で、攻撃性・積極性を高め行動を強化する脳の働きと関連すると考えられています。リスクをとって攻めるといった行動には、これらのホルモンが関与している可能性があります。
分析の結果、これらのホルモンのバランスがレースの成績に関係していることがみえてきたのですが、興味深いのは「どちらのホルモンがパフォーマンスに強く関係するかは、選手によって異なる」ということです。考えてみれば、これは理にかなっています。もともと一か八かのチャレンジをしがちな選手は、それ以上無茶をしないほうがよいでしょう。一方慎重すぎる選手は、もっとリスクの高い行動をしたほうがパフォーマンスが上がるかもしれません。選手のタイプが客観的に把握できれば、それに合わせた介入ができるようになると期待されます。
「目」に話を戻せば、野球のバッティング中の目の挙動がスキルレベルによって異なるという論文を以前発表しました。いくらパワーがあってスイングが速くても、バットの芯でとらえなければ打球速度は出ません。バットの芯でとらえるにはボールの到達点を精度良く予測することが必要で、その予測の元になる視覚情報の質は目の挙動にかかっているわけです。打者の脳の予測能力を目から推定する試みといえます。その論文の内容はメジャーリーグ球団でもすでに活用されているようですが、その後、さらにデータが溜まっています。あるプロ球団の春季キャンプで、一軍スター選手から育成の若手選手までほぼ全員を一度に測定したこともあります。
こういうデータが蓄積されると、選手の育成、評価に活用できます。一口に「良いバッター」といってもいろいろあります。体格や身体能力、プレイスタイルなどは千差万別で、めざすべき方向はさまざまです。目の挙動は、選手のタイプを判断したり、伸ばすべき方向性を探ったりするうえで、貴重なヒントになります。
さらに、選手の潜在能力、将来性を見出すうえでも役立つ可能性があります。計測した中に、目の挙動が理想的なスター選手がいました。小柄で、スイングも速くないのに、長打力はトップクラスです。その選手と似た目の挙動を示す若手選手も何人かいました。まだ目立った実績はないのですが、適切な経験を積めば、将来そのスター選手のようになるかもしれません。逆に、ある選手はドラフト1位であったにもかかわらずなかなか一軍に上がれず、結局引退したのですが、目の挙動に問題がみられました。それが活躍できなかった原因だと断定することはできませんが、レベルの高い投手に苦戦するのは十分予想できました。
先ほどの格闘ゲームの話もそうですが、過去の成績ではなく、脳や目などの生体情報を用いれば、環境が変わった場合も含め、「今後どうなるか」が予測できるようになるかもしれません。単に「有望選手をピックアップする」ということではなく、壁に直面している選手の問題の所在を突き止めたり、個々の適性やスタイルに合わせた改善法を見出したりすることにも貢献できると考えています。

脳と身体の最適化原理を求めて
今後の展望をお聞かせください。
スポーツ分野では、いくつかの競技のトップアスリートに関して、リアルな状況ならではの興味深い現象がいくつか見つかりました。意外性の高いものも多く、謎がたくさんあります。今後は、これらの現象の神経科学的なメカニズムを深掘りすることにまずは注力したいと考えています。アスリートの現場にフィードバックする際にも、「とにかくこうすればこうなるらしい」ではなく、原理やメカニズムまで分かったうえで行えば、個人の特性や状況に応じて適切な方法を提供できるでしょう。直面している問題やトレーニングの目的が同じでも、人によっては全く逆のことをすべきということはよくありますからね。研究成果を世に出したいのはもちろんですが、質を担保するには、まずは基礎研究として足場を固めることが私たちの責務だと考えています。
さらに、スポーツの中でも、少し違った側面に焦点を当てたいとも考えています。1つは、複数人の相互作用です。スポーツには相手がいますし、チームメートがいる場合もあります。強い選手を集めたら強いチームになるわけでもありませんし、対戦相手にも相性があります。チームの勢いで個人のパフォーマンスが変わることもある。このような現象の正体を認知神経科学的に解明したい。これを実戦で観測するのはこれまで以上に大変ですが、そのチャレンジ自体、やりがいがあります。
もう1つ、美しさや感動、感情などの神経科学的なメカニズムにも興味があります。ただ、これは相当ハードルが高いですね。これまで扱ってきた側面は、そもそも結果が定量的で、良し悪し、勝ち負けがはっきりしています。しかし「美しさ」のような側面は極めて主観的で、人によっても感じ方はさまざまです。私たちの得意技は、当人も自覚できないような脳や身体の反応を客観的に測定、解析することですが、この技をどうやって活かすか、あるいは新しいアプローチを模索するのか。そのようなチャレンジの一環として、最近は音楽にも対象を広げているところです。
これまでのところ、私たちの研究対象はトップアスリートに限られていますが、見据えている先はさまざまな人々の活動です。スポーツに限らず、脳と身体の最適化、あるいは不調がかかわる問題は日常いたるところにあります。実は最近、腰を痛め歩くことに困難を感じる経験をしました。それだけで、直接的な不自由さはもちろん、メンタル面も含め、想像以上にQOL(Quality of Life)が低下しました。その目線で街中を歩いていると、同様の問題を抱えていそうな人が思いのほか多いことに気付きます。今後、急速に高齢化が進むわけですから、このような問題はますます深刻化するでしょう。腰が痛い、歩きにくいといった症状でも、原因は局所的な損傷などにとどまらず、全身および脳を含めた総合的な機能に問題がある場合も多いのではというのが、自分が症状を経験したうえでの実感です。
一方、日本の将来を担う子どもたちの身体機能についても問題意識を持っています。都市部を中心に、小さいときに日常的に全身を使って遊ぶ環境が減っています。かけっこすら塾に習いに行く時代です。このようなことが、認知面、メンタル面も含め、想定外の影響を持つかもしれない。それが顕在化するのはまだ先だとしても、少し心配もしています。
AI時代とはいえ、心と体を良い状態に保ち、意のままに操ることがQOLの根幹だとすれば、私たちの研究は、それに資するものでありたいと思っています。
研究対象が方法を教えてくれる
研究分野を開拓していく思いや日頃心掛けていること、そして後進へのメッセージをお願いします。
いいことかどうかは定かではありませんが、自分の行動原理は非常に単純で、おもしろいこと、不思議なことを追いかけるということに尽きます。これはまさに三つ子の魂というべきか、田舎で受験勉強などにも無縁で、学校の勉強に関係のない興味をひたすら追って育った名残だと思います。職業として研究をするわけですから、社会的意義ということはもちろん考えます。そのとき、あまり近視眼的にならないほうが、結局のところ有用性が高くなるのではないかと思います。
研究をするうえで、何を知りたいのか、あるいは実現したいのかが先で、方法論は後から来るはずです。方法論が確立しているような分野は、もはや新しくないともいえます。新しいことにチャレンジするということは、必然的に、方法から生み出していかなければなりません。これも個人的にはごく自然で、小さいときから、何をするにしても誰かに教えてもらうということはなく、勝手に自己流で突き進んでいました。それで相当損もしたとは思います。若手の方々には、あまり賢くならず、自分流に試行錯誤しながら本質的な問題に挑戦してほしいと思います。誰かが教えてくれるというより、対象としている現象そのものが、厳しいことも含めて教えてくれるのではないでしょうか。
