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「光発振器ネットワーク」をさまざまな課題に応用し、情報処理システムの未来へ新たな一歩を踏み出す

高度な情報処理が求められる計算機学の分野では、ネットワークにおける無数の選択肢の組合せから最適解を導き出すために、焼きなまし法と呼ばれるアルゴリズムが広く使われています。しかしより複雑なネットワークが構築されていく現代において、従来の方式によるアプローチは限界を迎えつつあります。この壁を打破するために、量子アニーリングをはじめとして、さまざまな物理システムを応用した情報処理の手法が提案されています。今回は光の技術を用いて新しいコンピューティングシステムの研究に取り組む稲垣卓弘特別研究員にお話を聞きました。

稲垣卓弘 特別研究員
NTT物性科学基礎研究所

PROFILE

2012年東北大学大学院工学研究科電子工学専攻博士課程修了。同年、日本電信電話株式会社入社。2019年より特別研究員。日本物理学会2015年応用物理学会講演奨励賞を受賞。2016年日本電信電話社長表彰発明考案表彰、2018年先端技術総合研究所所長表彰(報道特別賞)、2022年物性科学基礎研究所所長表彰(業績賞)等を受賞。量子光学、量子エレクトロニクスを用いた情報処理の研究に従事。

光を用いたコヒーレントイジングマシンの技術で組合せ最適化問題を解決

◆現在コンピューティングの課題となっている「組合せ最適化問題」とはどのようなものなのでしょうか。

組合せ最適化問題とは、複数の選択肢の組合せの中から目的に適したものを探索していく課題です。例えば「右と左のどちらへ進むか」といった簡単な2択の選択であっても、その選択の回数が増えるにつれて組合せの数は指数関数的に増えて膨大な数になるため、現代のコンピュータをもってしても組合せすべてを網羅する最良の答えを導き出すことは非常に困難です。この難問の解決法として、ヒューリスティックと呼ばれる手法で近似解を高速に導き出す、焼きなまし法などのアルゴリズムが用いられています。焼きなまし法は非常に強力なアルゴリズムですが、組合せ最適化問題における選択肢のネットワーク構造が大規模化・複雑化するにつれて、優れた成績の近似解を得るための計算時間やエネルギー消費が課題になってきました。
この組合せ最適化問題を高速かつ高精度に問題を解くための手法として近年注目を集めているのがイジングモデルです。イジングモデルとは、磁石のS極とN極のように上向きと下向きの2種類の状態(スピン)を持つネットワークのモデルです。このモデルを利用して、組合せ最適化問題における2択の選択肢をスピンの上向きと下向きに置き換え、選択肢の関係性をスピンの相互作用によって、組合せ最適化問題をイジングモデルによって解くことができます(図1)。これまで超伝導量子ビットのネットワークを用いた量子アニーリングマシンなど、このイジングモデルに基づいて物理システム上で組合せ最適化問題を解くための手法が提案されています。

◆実際にイジングモデルを用いた物理システムとはどのようなものでしょうか。

NTTの基盤技術である光発振器のネットワークを用いてイジングモデルを表現することで、コヒーレントイジングマシン(CIM:Coherent Ising Machine)と呼ばれる新しい仕組みの情報処理システムが実現しました。この計算機では、縮退光パラメトリック発振器(DOPO:Degenerate Optical Parametric Oscillator)と呼ばれる特殊な光発振器を用いることで、出力される光を0位相とπ位相の2つの状態に分けることができます。この2つの状態をイジングモデルのスピンの向きに置き換えることにより、光発振器のネットワークを用いてイジングモデルを表現しています(図2)。
これは焼きなまし法や量子アニーリングとは異なる、新しい原理の計算機になります。具体的なCIMの特徴の1つとして、すべての光発振器の間に同じ位相もしくは反対の位相の光結合のネットワークを設定することができるという点が挙げられます。光には「同位相が結合するとエネルギーがプラス、逆位相どうしが結合するとエネルギーがマイナスになる」という性質があり、CIMではネットワーク全体の光結合で生じるエネルギー損失が少なくなるようにすべての光発振器の0位相とπ位相の状態が自然に選択され、イジングモデルとして見たときに全体のエネルギーが低い状態にスピンの向きが変化します。これを組合せ最適化問題として置き換えることで、優れた成績の選択肢の組合せを導き出すことができるのです。
これまでも物理システムを用いて組合せ最適化問題を解く研究は数多く提案されていましたが、大きな課題として「均質な物理素子を多数用意して、それらの間に複雑なネットワークを実装する」というものがありました。例えば量子アニーリングの技術では、超伝導量子ビットを並べてそれらの間に配線をすることでネットワークをつくるため、素子ごとの品質のばらつきや配線の空間的な制約が複雑なネットワーク構造の実装における大きな課題だったのです。そこでNTTのCIMでは、単一の巨大な光発振器を時間領域で多重化することで均質な光発振器を多数発生させ、この課題を解決しています。1つの光ファイバの輪の中に山手線のように時間をずらして光パルスを走らせることで複数の光発信器をつくることができ、均質な光発振器を数多く実装することが可能になります。また、時間領域の多重化により個別の測定が不要になり、1つの検出器で時間ごとに異なる光発信器が計測可能になるため、検出器とフィードバックシステムの測定結果を基に複雑なネットワークをつくることも可能になっています。このような技術を用いて実装を行い、全長5kmの光ファイバリングの中で最大10万個の光発振器を持つ大規模システムが実現しています(図3)。現在はこの技術を用いて組合せ最適化問題の解探索を行い、創薬や無線周波数割り当てなどさまざまな分野での活用が期待されています。

◆現在はどのような研究に取り組まれているのでしょうか。

現在ではCIMの研究で実現した光発振器の大規模ネットワークを基礎として、人工光ニューロンによる光スパイキングニューラルネットワーク(光SNN)を実現する研究にも積極的に取り組んでいます。私はもともと「人間の脳の仕組みはどうなっているのか」といった生物学的な学問領域に非常に興味があり、共同研究者の方と議論を重ねるうちに「CIMで用いたDOPOの特性を応用して脳の神経細胞のスパイク(発火現象)を模擬できるのではないか」という着想を得て研究がスタートしました。
DOPOを研究に用いるメリットの1つとして、光発振器の励起光強度を変えることで人工光ニューロンの発火モードを自由に選択できるという点が挙げられます。現在の研究で着目しているClass-IとClass-IIと呼ばれる2種類の神経細胞の発火モード以外にも、生物の神経細胞にはさまざまな発火モードが存在し、それらが連携しながら高度な情報処理を行っていると考えられています。そのためDOPOにより、複雑な脳の神経細胞の発火モードを再現し多様性のある人工光ニューロンのネットワークを構築できるのは、脳の情報処理の仕組みを解明するうえで大きなアドバンテージになると期待をしています。
これまでの研究成果として、最大256個の人工光ニューロンのネットワークの実験を実証しました。ここでは基本的な人工ニューロンの発火ダイナミクスの観測実験から始まり、ネットワークにおける自発的な同期現象やキメラ状態と呼ばれる同期相と非同期相の共存した状態の観測実験などを行っています。

◆光SNN研究の今後の展望をお聞かせください。

研究の新たなステップとして、光SNNの規模を拡大して1万個の人工光ニューロンの実験装置の構築を始めています。一般的な機械学習のアプリケーションに向けたテストを行うにあたって256個ではまだ不十分であるため、次の目標として1万個のネットワークをめざしています。人工ニューラルネットワーク(ANN)による画像認識や時系列予測などの情報処理をSNNモデルに応用する研究も近年盛んなので、私たちの人工光ニューロンのネットワークを使ってこれらを物理システムに実装していきたいと考えています。
人間の脳を完全に模倣するためには、100億個から1000億個という大規模なニューロンのネットワークの実現が究極的な目標になると思いますが、まず私たちの研究では神経細胞の持つ発火モデルの多様性が、脳の情報処理においてどのような役割を果たしているのかを解き明かすことに挑戦していきたいと考えています。より一層人間に近い情報処理を実現するために、今後はClass-IとClass-IIを含めてさまざまな発火モードに関する知見を光SNNに取り入れて、私たちの脳の情報処理モデルの解明に挑戦していきます。

一寸先の闇に飛び出し新たな地平を拓く研究者に

◆現在ご所属されているNTT物性科学基礎研究所にはどのような印象をお持ちでしょうか。

一般的に「企業の研究所は、指定されたテーマに沿って研究開発が行われる」というイメージが広く定着していると思います。しかし私の所属しているNTT物性科学基礎研究所は、企業の研究所でありながら非常に高い自主性を持って研究テーマを選択できる研究所です。私たちの研究所では量子情報技術やオンチップ光回路から生体電極によるセンシングウェアまで幅広い研究を行っており、この研究の多様性を支えているのは、やはり研究者に与えられる研究テーマの自主性だと私は感じています。研究グループごとにある程度の方向性はありますが、私が人工光ニューロンの研究を始めたときにそうであったように、研究者自身がやりたいと思ってその理由をしっかり説明できれば、新しい研究テーマの立ち上げを積極的に応援してもらえる研究所なのだと思っています。研究は目標が達成できたときにはとても楽しい反面、その道のりの大半は辛くて苦しいものです。そのため「研究目標が研究者自身のモチベーションに沿っているか」ということが最終的な研究成果の質を大きく左右すると私は考えています。そういった点で、研究テーマの自主性が尊重された中で基礎研究に取り組んでいるNTT物性科学基礎研究所は、他の企業の研究所を見渡しても稀有な存在なのではないかと思っています。
また私たちの研究所には、理論家が多く在籍していることが大きな強みだと感じています。基礎研究から開発まで技術をつなげていくためには多くの実験が必要になりますが、私たちの研究では優秀な理論家の1つのアイデアが劇的なブレイクスルーを引き起こして実験の難しい課題を解決してしまうことがよくあります。私のグループでは理論家と実験家が同じオフィスにいるため、データの取れたその日に相談してフィードバックのやり取りを行いながらスピーディに実験を進めることができます。実験結果から理論家がより適したパラメータの予測を行い、その予測を反映して実験家が次の実験をするフィードバックループはとても心強いもので、進むべきルートを明るく照らしてくれる灯台のようだと日々感じていています。そしてこれこそが、NTT物性科学基礎研究所の最大の強みであると思います。

◆最後に、研究者・学生・ビジネスパートナーの方々へメッセージをお願いします。

私にとって研究の醍醐味は、誰も知らない領域に真っ先に足を踏み入れる瞬間だと思います。研究を進めていると自分のつま先に線が引いてあるように感じることがあり、その線の先にある人類未踏の真っ暗な領域に踏み出すときに覚える恐怖心と高揚感が私はとても好きです。9割以上の場合そこから先は崖になっていて転落してしまうのですが、その一方で新天地に踏み出せることもこれまでに何度かありました。ここで成功するために重要なことは、自分自身が「おもしろい」と思ったことに失敗も覚悟して取り組むことだと考えています。NTTの研究所ではそうしたトライアンドエラーの環境が十分に提供されており、そうした環境の中で日々研究を進められることはとても幸運であると感じています。「落ちても大丈夫なように準備をして、先が真っ暗でも踏み出してみる」というこの転落と前進の繰り返しを、私が研究者として生きている間はずっと続けていきたいと考えています。
また近年では、異なる研究分野の境界線において新しい研究テーマが立ち上がることが多々あります。例えば私が現在取り組んでいる光SNNの研究は光学・脳科学・計算機学など研究領域が多岐にわたるため、研究を1人で進めることはできないと感じています。そうした状況では、適切な専門性のある人に「助けてください」と言えることこそが、難関を突破するうえで必要不可欠であると日々感じています。現在社内だけでなく社外の多くの方にご協力をいただいていますが、研究者のネットワークにおける専門分野の多様性が大きな力につながるため、これからも異なる研究分野の研究者にも面白いと感じてもらえるような研究を続けていきたいと考えています。もしこの記事を読んでご興味を持ってくださる方がいらっしゃれば、お声がけいただけるとありがたいです。新たな領域に一緒に挑戦していけることを願っています。