特集 主役登場
未踏領域を開拓する無線通信の実現に向けて
大森 誓治
NTT未来ねっと研究所
主任研究員
今や無線通信は水や電気に次ぐ、私たちの生活にはなくてはならない重要なインフラの1つといっても過言でないほど現代社会に深く浸透していると思います。その無線通信は1895年にイタリアのマルコーニによって発明され、以来約130年の間、さまざまな無線研究の先人たちの業績により私たちの生活を大きく変えてきました。ちょうど私が小・中学生のころにポケットベルが日本でブームとなり、高校生のときに携帯電話が登場し、大学生のときにスマートフォンが爆発的にヒットして世の中を変えてきました。このように無線通信で社会が劇的に変化していく様子を目の当たりにして無線通信に興味を持ち、同じように世の中を変えるような無線技術に取り組んでみたいと考えNTTに入社しました。
私の入社時の無線のトレンドはIoT(Internet of Things)通信でした。世の中のいたるところにコンピュータが遍在する「ユビキタスコンピューティング」という概念が1988年に米国のマーク・ワイザーにより提唱され、その後2000年代後半のスマートフォンの爆発的な普及が後押しとなり、ヒト・モノ含めた「ユビキタスネットワーク技術」として検討が活発化し、私もその研究開発に携わりました。以降、M2M(Machine to Machine)通信やIoT通信など、その時流に合わせて技術の総称は変わっていきながら発展を遂げ、現在では無線インフラのカバレッジは人間の生活圏のほぼすべてのエリアを網羅できるところまで来ています。
そして今、NTTグループでは5G(第5世代移動通信システム) Evolution & 6G(第6世代移動通信システム) powered by IOWN(Innovative Optical and Wireless Network)の1つの取り組みとして、今まで電波が届かなかったエリアへカバレッジを拡張する「超カバレッジ拡張」の実現をめざしています。先述のとおり、人間の生活圏、つまり陸上はほぼすべてカバーできるところまで実現できているので、超カバレッジ拡張がめざす世界は宇宙や空、海や川の中といった人間の生活圏の外を無線エリア化するという非常にチャレンジングなテーマになります。このような未踏領域を無線エリア化することで、新たなビジネスの創出が期待できるだけでなく、今まで危険を伴いながら人間が行っていた作業をロボットの遠隔操作により代替するなど、安心・安全な世の中の実現に貢献できると私は信じています。
私は現在、電波の未踏領域の1つである海中の無線エリア化に向けた研究開発に取り組んでいます。地上では電磁波が空中を伝搬する性質を利用し、電磁波に情報を載せて遠くまで通信ができます。しかし、海中では水が電磁波のエネルギーを吸収してしまい数cm程度しか通信ができません。そこで、海中では光を使った可視光通信か音を使った音響通信が主に用いられます。海中で未踏領域というと水深数100kmから数1000kmといった深海を思い浮かべる人が多いと思います。ここで面白いのが、無線通信に限っていえば水深が深いエリアよりも浅いエリアこそ難易度が高いのです。確かに水深が深いエリアは水圧が大きく太陽光も届かず、一部の深海に適した生物を除き生存が難しく、ダイバーや潜水艇が活動するには過酷な環境です。しかしながら光も届かず生物もほとんどいない、ということは裏を返せば海中環境の変動は大きくなく安定しているといえます。無線通信では周辺環境の変動の大小が通信品質に大きく影響するため、環境変動の小さい深海だと光でも音でも安定した通信が比較的容易に実現できるのです。一方で水深10~30m程度の浅い海域では魚やエビといった多種多様な生物が生息しているだけでなく、船舶の往来や海流の影響で大きな環境変動が生じるため、昔から長距離高速無線通信が難しいといわれてきた領域になります。また、市場面でも、確かに深海には海底資源という魅力的な市場はありますが、それよりも水深が浅い海域で展開される漁業や港湾工事等の海洋事業では、DX(デジタルトランスフォーメーション)化が喫緊の課題であり、さまざまな企業が海洋DXに向けた取り組みを行っています。しかし、先述のとおり浅海域では安定した無線通信の提供が難しく、通信はもっぱら有線接続で行われており、海中無線機・ロボットの運用面で大きな制約を受けます。
そのように海中無線通信のブレイクスルーが望まれる中、私たちは2022年11月に海中音響通信技術により世界初となる浅海域での伝送速度1Mbit/s・300m無線伝送実験に成功しました。また同年12月には、本技術を搭載した完全無線制御型の水中ドローンを用いた公開実証実験を静岡県で行い成功させました。これらの結果は国内外から非常に注目され、多数の海洋関係者より問い合わせを受け反響の大きさを実感しました。海洋DXを実現するには社会実装が必要で、そのためには解決すべき課題がたくさん残されています。今後はパートナーの皆様と連携し、真の海洋DX実現に向けて研究開発を進めていきたいと思います。