最新号の主な記事

「NTT技術ジャーナル」編集部が注目した
最新トピックや特集インタビュー記事などをご覧いただけます。

PDFダウンロード

特別連載

ムーンショット・エフェクト──NTT研究所の技術レガシー

第8回 シャツが生体情報計測のIoTセンサに

ノンフィクション作家の野地秩嘉(のじつねよし)氏より「ムーンショット・エフェクト──NTT研究所の技術レガシー」と題するNTT研究所の技術をテーマとした原稿をいただきました。連載第8回目は「シャツが生体情報計測のIoTセンサに」です。本連載に掲載された記事は、中学生向けに新書として出版予定です(NTT技術ジャーナル事務局)。

■コネクティッドされた身体

IOWN構想の核となるのがオールフォトニクス・ネットワーク(APN)だ。ネットワークに接続するすべてのデバイスを対象にして、情報伝送と演算処理を光技術で行うこと。その実現のために光トランジスタを開発している納冨(雅也)、光ファイバ通信の実用化技術を進展させた宮本(裕)、そして曲げフリー光ファイバを開発した中島(和秀)…。
彼らを筆頭にNTT研究所のメンバーたちはAPNの実現に総力を挙げている。
また、IOWN構想にかかわる技術の実用化時期についてNTTは2030年を目標としている。しかし、それでは遅い。
NTT研究所の俊英たちからは「勝手なことを言うな」と叱られるかもしれないが、少なくとも3年は前倒ししてもらわないと、日本と世界が困るのである。
新型コロナ禍による在宅勤務の影響もあって、インターネットのトラフィックやIoTデバイスで扱われる通信量はさらに増加している。また、自宅にこもって孤独を感じる個人はスマホを酷使することもあり、ICT機器の消費電力は増える一方だ。
少しでも早く光電融合型の処理を行うAPNを実現しなくてはならないのだが、当面は増大した消費電力を補うため発電量を増やさざるを得ない。
それを太陽光発電や風力発電等で賄うには限界があるため、今まで以上に化石燃料を使用することにつながり、温室効果ガスの排出量をゼロに近づけるという人類の目標に逆行してしまうのである。だからこその目標前倒しだ。
光電融合型技術がAPNをはじめ、さまざまな電子機器で使われるようになれば、スマホの充電は1年に一度くらいでよくなるだろうし、むろん、多くの電子機器が使われている家庭での消費電力も激減するから全体の発電量を抑制できる。
そうしたAPN社会に向けて活用が期待されている技術のひとつが生体信号計測素材のhitoe®*だ。

*:機能素材hitoe®は東レ株式会社と日本電信電話株式会社が共同で開発した機能繊維素材であり、両社の登録商標です。

■hitoe®に触れる

わたしがhitoe®の実物を見たのは新型コロナ禍のさなか、2020年の初秋だった。秋とはいえ、東京はまだ暑かった。晴海にあるビルのなかでネットワーク設備の工事があり、そこで働くNTT社員が実証実験の一環としてhitoe®を使ったシャツを着用していたのである。空調設備の工事中のためエアコンは切れていた。内部にこもった熱気で室温は40度近かったのである。hitoe®を使って、体温、脈拍や心電図のような生体信号を計測できれば、熱中症の予兆もわかるかもしれない、そう思いを巡らせていたわたしにhitoe®について説明してくれたのはNTTデバイスイノベーションセンタの主幹研究員、都甲浩芳だ。
都甲は「初めまして」と言った途端、薄いジャケットを脱ぎ始めた。
「何をするんだ、いきなり何が始まったんだ」と思っているうちに彼はアンダーシャツ1枚になった。このシャツこそがhitoe®で作られたシャツで胸の部分には小型のトランスミッタ (送信機)が付いている。トランスミッタはクレジットカードの3分の1くらいの大きさでハート型をしていた。
「これがhitoe®です。実物を見ていただいた方が理解しやすいと思ったので」。
なるほど、裸になる癖があるわけではないのだなとわかった。
下着の裾を延ばし、彼は説明を始めた。
「hitoe®はからだに接触すると、身体の電気信号を計測できる布状の電極のことです。導電性(電気を通す性質)の素材をナノファイバ繊維に塗布し、固定化することで、金属を使用せず、からだに優しい電極を作製しています(1)(図1)。
たとえば、心臓は動く時に電気信号を出しています。脳も脳波として電気信号を出します。この電気信号を捕まえて、トランスミッタから外部に信号を送り出します。
これまでにも電気を通す銀や銅が編みこんである繊維や布はあったのですが、金属アレルギーのある方だと皮膚に影響が出てしまうことがありました。その点、hitoe®は生体親和性が高く、皮膚に優しいのです」。
hitoe®のポイントは繊維に塗り込んである導電性高分子のPEDOT-PSSだ。だが、PEDOT-PSSは水に濡れると非常にもろい性質を持っている。水分が多い環境で利用される生体電極には向かなかったのである。
それをhitoe®の開発者であるNTT物性科学基礎研究所 フェローの塚田信吾と主席研究員の中島寛が考えをめぐらせて解決した。元々医師だった塚田が絹の縫合糸(手術後に縫い合わせる糸)にPEDOT-PSSをコーティングし固定化する手法を見出し、水に濡れても使えるようになったのである。
NTT研究所は東レ株式会社と一緒に研究を始め、絹の繊維を繊維径700㎚(ナノメートル)のポリエステルナノファイバに置き換え、 hitoe®として実用化したのである。なお、ナノメートルとは10億分の1メートルで、髪の毛の太さの10万分の1くらいだ。人間の目に見える長さではない。これにより肌への密着性が格段に向上してからだを動かしても安定して計測できる(1)(図2)。
hitoe®は機能素材であるが、それを衣料として織り込んで、計測した信号をデータとして送信し、その結果を心電図のように身体の状態を見守るシステムとして活用する。
「例えば、心電図は病院に行って機器を取り付けたときにしか計測できません。日々の生活の中では、ホルター心電計という小型の計測機器を常に持ち歩いて計測・蓄積し、病院に行って結果を診てもらわなければなりません。ところが、hitoe®のシャツを着ているだけで病院等にデータが送られるのです」(都甲)。
hitoe®で計測されたデータはhitoe®製のシャツやベルトに付いているトランスミッタからブルートゥースでスマホに飛ぶ。また、スマホからは無線と光ファイバネットワークを通じて、モニタリング・センタに飛ぶ。つまり、光通信技術が進んで、多くの体調情報を送れるようになれば、用途は広がるのである(2)(図3)。

■今のところは暑さ対策

熱中症になりそうなくらい暑い日に屋外で働く人間の心拍数と衣服内の温度、湿度を計測し、本人と外部のスマホにアラームで通知する。通知をもらった本人は休むなり病院に行く。
「そんなこと自分で判断できるだろう」。
素人はそう考えるけれど、熱中症はめまい、けいれん、吐き気などの症状が出たり、最悪の場合は死に至る。症状が出る前に発見して、休む、水を飲む、体を冷やすことが重要だ。hitoe®を用いて熱中症が出る前のサインを発見するのである。
hitoe®について説明をしてくれる都甲にわたしはひとつ訊ねた。
「いずれは新型コロナなどの感染症対策に使えるようになるのでしょうか?」。
hitoe®製のウェアを着ているだけで新型コロナを発見するPCR検査の代用になるとは思っていない。しかし、少なくとも自宅で療養する人たちの心拍数をつかむことはできる。あとはまた研究開発を続ければいいのではないか。
都甲の答えは慎重だった。
「これを着れば新型コロナに感染しているかどうかがわかるということを目的にしていません。ですが、直接、接触しなくても体調の一部データを取ることは可能ですからそれを応用することはできるわけです。
今のところは暑いなかで働く人、真夏の屋外や空調のない屋内で働く人を主な対象に、熱中症の要因がさまざまあるなかで、暑さ対策を意識しています」。

■オリンピックをサポートする人たちが着る

東京オリンピックパラリンピック2020のバドミントン競技の日本代表、桃田賢斗選手はNTT東日本の所属でもある。
オリンピックに出場する選手ではないが、NTT社員はネットワークの設営などの作業で会場予定地へ出向くことになる。真夏の屋外や空調のない屋内での作業だから、当然、熱中症の心配が出てくる。hitoe®は彼らが着用するにも最適だ。
「ええ、そうなんです。2019年のことでしたが、テストを兼ねて競技場予定地に行ったことがあります。真夏でしたから手持ちの温度計が40度を超えていました。もう、いるだけで熱中症になりそうでした。
また、熱中症は真夏だけでなく、実は5月、6月も多いんです。暑熱馴化といって、まだ暑さ慣れしてない時期にも気を付ける必要があります。
熱中症の救急搬送データを調べると、山が2回あって、ゴールデンウィークと真夏なんです。ゴールデンウィークは暑さ慣れしてない人たちが、天気が良くなって運動や屋外作業して熱中症になってしまう。
これまでにも暑さ対策の実証実験をやってきたのですが、結果としては熱中症になった方はひとりもいませんでした。hitoe®による暑さ対策のおかげというよりも、これを着けていたことによって、みなさんが気を付けたのかもしれません」。

■hitoe®が取るデータ

hitoe®トランスミッタはウェラブル生体環境センサでもある。つまり、生体情報だけでなく、環境のデータも取っている。では、生体情報のひとつとしては心拍数として、「環境」とは何なのか。
都甲は「環境とは衣服のなかの温度と湿度のことをさしています」と言った。
「心拍数と衣服内の温度、湿度を組み合わせると、体内温度の変動が推測できます。
運動したり体を動かすと、心拍数が上がって、体温も上がる。そうすると、体は一生懸命放熱しようとして汗をかくのですが、衣服内の湿度が高いとそれ以上、汗が蒸発しなくなる。すると、体温が上がって熱中症という症状になりやすい…。
こういった体温調節機能を数式でモデル化してhitoe®で測定した心拍数と衣服内温度・湿度を用いて体内温度の変動を推定することが新しい。数式は名古屋工業大学の平田晃正教授と構築し、モデルの妥当性は横浜国立大学の田中英登教授や至学館大学の宮澤太機准教授と実証してきました。元国立スポーツ科学センター長の川原貴リサーチプロフェッサに監修いただいて技術が完成しています」(3)。

■使用できる期間

hitoe®は繊維に導電性素材を練りこんである。では、耐久性はどうなのだろうか。暑い日に着用するから汗で濡れる。当然、洗濯する。むろん、トランスミッタは付けたまま洗濯できないが、シャツ部分(あるいはベルト部分)は洗濯しているうちに繊維から導電性物質が剥離してしまうのではないか。
「今のところ、電極部分は洗濯に対して100回以上の耐性があります。ウェアは自宅で洗濯し、トランスミッタは洗濯時には取り外して充電することで、繰り返し使用することができます」。
hitoe®の暑さ対策応用についていえば完成している。やるべきことはウェアラブルデバイスにさまざまなデータが取れるような機能を追加することだろうか。そして、繰り返しになるが、APNを進展させる。そうすればリモート医療の検査衣料としての未来が見えてくる。
都甲は「ええ」と言った。
「私たちもこれからのことをいろいろ考えています。暑さ対策だけでなく医療分野でも、お手伝いしていきたいとも思っています」。
hitoe®を使った衣料はさまざまな可能性が考えられるスマート衣料だ。だが、使い方、付属品についてはまだまだ研究開発の余地がある。特に必要なのは発想だろう。
「膨大な量のデータを取って遠隔地にリアルタイムで送る」ことは光通信技術のもっとも得意とする点だ。暑さ対策だけに使うのはもったいない。使い方を広く募集するくらいの度量があっていい。だから、わたしはhitoe®については多くの人に存在を知ってもらいたいと思っている。

■参考文献
(1) https://www.ntt.co.jp/journal/1402/files/jn201402015.pdf
(2) https://www.rd.ntt/forum/exhibition.html
(3) 高河原・橋本・松永・樋口・松浦・桑原・都甲・川原・平田・田中・宮澤:“より安心して働ける作業現場の実現に向けた体調管理技術,”NTT技術ジャーナル,Vol. 33,No. 4, pp. 47-50, 2021.

野地秩嘉(のじつねよし)

1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。日本文藝家協会会員。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『ニューヨーク美術案内』など多数。『トヨタ物語』『トヨタに学ぶカイゼンのヒント』がベストセラーに。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。
近著は『日本人とインド人』(翻訳 プレジデント社)。