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挑戦する研究者たち

人生、何一つ無駄なことはない。すべての人が生き生きと暮らせる社会を築きたい

The World Literacy Foundationの2015年8月の報告では、非識字による経済・社会的損失は日本では年間約951億円と推計しています。日本は義務教育により識字率は99.8%に達しているといわれていますが、平成28年に実施された国立情報学研究所の調査によれば、主語と述語の関係等、文章の基本的な構造を理解できていない中高生が多く存在することが明らかになっています。社会参加にとって重要な役割を担う「読み書き」の習得を研究する小林哲生NTTコミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員に、現在取り組んでいる研究と研究者としての姿勢を伺いました。

小林 哲生 上席特別研究員
NTTコミュニケーション科学基礎研究所

エビデンスに基づいた教育支援をめざす

現在の研究の内容などから教えていただいてよろしいでしょうか。

私は言語習得メカニズムの解明とそれを活用した教育支援の研究を行っています。簡単にいえば子どもが自然に言葉を覚えていくメカニズムを解き明かして、それを子どもの発達に向けた支援として活かしていく研究です。子どもは、おおむね0~3歳くらいまでの間に母語の基礎を習得していきますが、そのプロセスにおける音声の知覚、発話、語彙、文法、文字の習得あたりまでのメカニズムを対象に研究を進めています。最近では小学校で第二言語としての英語も学習範囲に含まれるようになり、この部分についても研究対象を広げてきています。
それから同時に、社会的な認知能力も研究しています。子どもは3~5歳ころから徐々に他者の気持ちや心の状態を推測できるようになっていきますが、それが発達していく仕組みについても、言語能力との関連から調査を進めています。現在は言語習得、認知能力いずれも定型発達の子どもを対象にしていますが、このメカニズムが分かると非定型発達の子どもにおける言語習得のつまずきポイントなども分かるのではないかと考えています。これらについて、病院などの医療機関と連携して研究し、エビデンスに基づいた教育支援につなげることを目標としています。

皆さんの英知と愛情の結集ですね。子どもの成長を助けるための研究に助けられる保護者も多そうですね。では具体的にどのような研究をしているかお聞かせいただけますか。

手掛けている研究の1つである日本語の語彙の習得メカニズムの場合、基本的なデータはあまりなかったため、0~4歳くらいの子どもの母親から現時点でどんな言葉を話せるかというチェックをしてもらい、統計モデル化し、言語習得の初期発達を把握しようとしています。収集データから、月齢と言語習得の関係をみると、約50%の子どもが「ワンワン」という言葉を発話できるのは15.5カ月なのに対して、「犬」は26.1カ月です。また、最初に理解できる言葉は「自分の名前」で、約50%のお子さんが約7カ月で理解できます。次の段階で、「バイバイ」「いないいないばー」などの社会的なコミュニケーションに使う言葉を理解し、おおむね1歳の誕生日までに平均で15語くらい理解したうえで発話できるようになることを確認しました。こういったデータをデータベース化し、子どもの月齢・年齢に合わせた言葉の検索や、月齢・年齢に合わせた幼児用のコンテンツの作成に活用することができたら、有益ではないかと考えて実現しました(図1)。こうした科学的な知見なども踏まえてNHK教育の「いないいないばあっ!」という番組の監修を10年以上担当させていただいています。長年の経験とノウハウに基づいて行われてきた番組制作に、エビデンスに基づく指針というものを付け加えることができるようになりました。
また、これらのデータに基づいて絵本も作成しており、これが非常に好評を博して、2年ほどの間に、5冊のシリーズ累計で約30万部の発行部数となっております。言語習得のパターンを考慮して、より初期の段階で習得する言葉だけで絵本を作成しましたが、言語習得の速さに個人差があることから、個々の子どもに合わせた「パーソナル知育絵本」を作成する実証実験を進めてきました。母親に子どもの言語習得状況をチェックしていただいて、子どもの発達に合わせて習得した単語を組み入れた絵本を作成します。この絵本がモニターから大変好評だったので、2019年12月からNTT印刷で事業化し、パーソナル知育絵本4冊のテスト販売を開始しています。絵本は言語習得に大きく寄与するので、まさに言語習得を支援する取り組みになります。一般に、自治体がブックスタート事業などで、乳幼児検診に合わせて1冊の絵本を配布しているのですが、残念ながら1冊の配布だけでは絵本を読む習慣を身につけるのは難しいと思います。
そこで、絵本を読むことを習慣化することで言語の習得を促すために、親子を図書館へ誘導することが重要だと考えました。これについて、2020年1月から沖縄県恩納村と協力して、検診に来た親子に、パーソナル知育絵本を作成してもらうことをきっかけに子どもを図書館に誘導することを始めています。パーソナル知育絵本は10日ほどで完成するので、それを再度図書館に取りに来るという仕組みです。そのうえで、図書館に何度も足を運んでもらえるようになったら、次は自分の子どもに合った絵本を蔵書の中から見つけて読み、それを繰り返すことで絵本を読むことを習慣化させようとする試みです。自分の子どもに合った絵本を検索するために「ぴたりえ」という絵本検索システムを開発しました(図2)。絵本には対象年齢が記載されているのですが、とても幅広い年齢が対象にされています。そこで、作品に提示されている対象年齢と、絵本に登場する単語や文章データを分析し、学術的なデータと言語処理の技術で文章の複雑さを推定することで、もっと絞り込んだ対象年齢や難易度順で絵本を検索することができるようにしました。「ぴたりえ」のデータにはタイトルだけではなく、絵本の中で使われていた言葉も整理されていますが、絵本は、フォントが定型ではなく、絵の上に文字が重なっている場合もあり、OCR等で機械的に読みこなすことはできないため、6000冊の絵本を1冊ずつ手で入力しました。ただ、子どもの発達の状況によっては、絞り込まれた対象年齢と実際の子どもの言語習得状況には誤差が生じますから、あくまでも目安としての対象年齢となりますが、現実に即した絵本選びができるようになり、図書館通いや絵本を読むことの習慣化へつなげていくことができると思います。
「ぴたりえ」はNTTデータ九州で事業化し、2019年4月から福井県立図書館に正式に導入し、現場である図書館で絵本検索システムをお使いいただいてます。その後、品川区の保育園にも正式に導入され、保育関係者からも大変好評でした。さらに、福岡市で夏休みに開催する「絵本ミュージアム」というイベントで、ロボットと対話しながら、好みの絵本を推薦するデモを実施し、2018年と2019年の2年にわたり2万人の方に体験してもらいました(図3)。日常とは少し異なる体験なので子どもにとっては楽しいようです。これによって色や柄の好みの形成過程などを解析しています。例えば、表紙の人物の絵の場合、子どもは漫画のような目の大きな顔が好きなようで、大人の読ませたいアーティスティックな顔のものとは違うことが分かりました。今後は、成長記録の解析にも取り組みたいと思っています。保育園と協力して、覚えた言葉等の成長記録をアプリに入れてもらって、成長にふさわしい絵本を推薦するというものです。ノウハウはもうありますが保育士に負担をかけないで実現する方法を検討しています。ちなみに、発達心理学の分野の話ですが、子どもが1、2歳のころに親が読み聞かせをしてくれた頻度が高いほど、小学校3、4年生の文章読解力や理解する語彙数が有意に増えるという研究結果があります。私たちの研究がこうした学習基盤を支える一助になれば良いという思いのもと、各地でこのような話をさせていただています。

図1 幼児語彙発達データベース

図2 ぴたりえ

図3 絵本ミュージアムでのデモの様子

最終的には熱意とやる気が道を拓く

この研究はどのようなきっかけで取り組みを始められたのでしょうか。

科学は世の中の現象を解明するもので、工学は科学で解明されたものなどを参考にしながら世の中で使えるものをつくることだと思っています。人間は言葉を話しますが、動物はしゃべらない。しかも、自然に話し出すのはなぜだろう解明してみたいという思い、つまり科学が研究のきっかけでした。大学時代は心理学を専攻し、人の存在に興味を持ち、大学院時代はチンパンジー、ゾウ、ネズミの心理学研究にまで対象を広げ、ヒトの特徴である言語に至る前の思考や認知のメカニズムを哺乳類と比較することで解明する研究をしてきました。こうした経験から人類は言語を有することを含んでとても特殊な存在であることを知り、進化的、発達的な観点から探るようになりました。言語の研究のアプローチは多岐にわたりますが、乳児を対象にすると何もないところから言葉を習得するまでのプロセスを追うことができますから、発達・進化の変遷をみることができる存在として重要だと思い興味を持ちました。
難問だといわれていることにチャレンジすること、解き明かされていないものを解くことはとても面白いという思いは科学者の多くは持っているのではないでしょうか。私も同じ思いであり、ごく当たり前のことをしてきただけだという感覚です。解けない問題に直面したときや、分析データが仮説どおりに説明できないとき、また、手掛かりがつかめないときこそ、やりがいのあるチャレンジだと思って研究を進めてきました。
一般に科学分野の基礎研究は、自然の摂理や世の中の仕組みを解明しながら成果を出して論文を書いて世界に挑んでいるのですが、現在の私の置かれた環境では、その成果を現場と喧々諤々しながら実用化につなげていくことにまで拡大してきました。NTTグループの事業としては小規模ではありますが、この過程をすべて担当できる面白さを最近とても感じています。これはおそらく大学などの研究機関ではできないことだと思います。私はもともと心理学や生物学を専門とした科学者でしたから、世の中への貢献にまで意識を持たずに研究を進めていました。しかし、企業にいるからこそ、「ぴたりえ」のように研究成果を多くの仲間やパートナーとともに具体的な事業としていくことは、とてもやりがいのある営みだと思います。

研究活動を支える、モチベーションはどのようなものですか。

2つあります。1番目は分からなかったことが少しでも分かるようになった瞬間の気持ち、分かるということの喜びですね。そして、2番目は研究した成果を誰かに使ってもらう、貢献できるものにつなげるという喜びです。どちらの喜びも大きく、確実にモチベーションにつながっています。分からないことにどのようなアプローチで対応するかというのは研究者が各々決めることですし、どの問題をテーマにして解くのかもセンスによるものだと思います。私の場合はヒトの言語習得の問題がテーマであり、それをどのように解くかがまさにセンスの部分です。これを磨いていきたいし、磨かないといけないと考えており、そのために辛抱強くチャレンジすることが大事だと思います。
ところが、「こんなの意味があるの?」など、チャレンジしている最中に言われることもあります。研究過程でも事業化でもさまざまなプロセスで、いろいろな立場の人がそれぞれいろいろなことを言ってきます。こうした周囲の意見は的を射たものが多く、リスクを指摘されて、まさにそのとおりだと思い、思わず立ち止まってしまうこともありました。新しいことを手掛けているため、人にそれを理解してもらうには並々ならぬ努力を必要とします。しかし、いかなる状況にあっても本当に自分が良いと思ったことに対して熱意と自信を持って推し進めることが重要と思います。誰かが何かしてくれるのを期待するのではなく、自身がしっかりと責任を持って最後までやるという意欲が大切であり、それの源泉がモチベーションなのです。

人生に無駄なことは何一つない。周囲を巻き込んで突き進もう

研究者の皆さんに一言お願いいたします。

NTTに入社以降、学生時代に携わってきた専門分野以外への強制的なテーマ変更もありました。自分の専門分野をそのままできることは結構な幸せだと思うのですが、そうではなかったとき、実はこれが多いのですが、今手掛けていることを自分の好きなことにできると良いと思います。私の今の研究は入社当時とは全く異なるものになっていますが、新しい専門分野が面白く感じられ、また工学的な領域や事業的な領域にまで踏み込んでいくことで、自分の手掛けた成果が目に見えるかたちで世の中に活かされるようになり、まさに自分の好きなことをやっているような状態です。
自分のしたいことができなかった時期は、日々悶々となんとなくもがきながらやっていたのですが、当時の研究所長が、「人生に無駄なことは何一つない」とおっしゃってくれたのが印象に残っています。当時は慰めの言葉だと思っていましたが、今になってそのとおりだと実感しています。一見無駄に思えることでも、真摯に取り組んで経験を重ねてきたことが、今のプロジェクトの活動の中で非常に役立っています。
それから、先ほども言いましたが、自分の研究の価値、意義について、周囲の理解者、賛同者を得ることが重要だと思います。研究開発は新しいモノ、コトを生み出すことであり、新しいがゆえに周囲にはなかなか理解してもらいにくいと思います。しかし、説明を辛抱強く繰り返していくことによって、理解者や賛同者が徐々に増え、そのうえに後押ししてくれる人たちが出てくるので、こうした人たちと連携しながら進めることで、成果をかたちのあるものにしていくことができます。

今後はどのように進んでいかれますでしょうか。

具体的な目標を立てて、それに向かって一歩ずつ進んで、着実にかたちにしていくのが自分のスタイルだと思っています。今、チームで進めているのが、言葉や感情能力を育てるための研究です。感情の知識、つまり相手がどんな気持ちかを考える、読み取るというのは子どもたちの社会生活にとってとても重要だと考えており、こうした能力を測定し、それをどのようにして子どもの発達の支援に役立てるか、ということがこのテーマです。
近々、小学生500人くらいを対象とした調査をしようと考えています。例えば、「もしもし?」という言葉に感情を乗せることにより表現もさまざまになりますよね。こうした言葉を子どもたちがどれくらい理解できるかを測定します。音声の把握が難しい子どもが多いという知見が海外を中心に寄せられていますが、日本の実態を把握してこの能力向上に向けてどう支援するかを考えたいです。
それから、ひらがなを自然に覚えて、書いたり読んだりするプロセスについては、まだ分かっていないところがあります。これについて大規模調査としては50年前の研究しかないので、私たち自身が最新のデータを集めようと考えています。以前は紙に書いてビデオで撮影して解析していましたが、今回はタブレット上に書いてもらうことで、書き順やスピードなども測定することができます。定型発達の子どもを分析することによって、読み書き障害(ディスレクシア)などの子どもの支援にもつなげていけそうです。発達の研究をしていると、発達の途中段階のちょっとしたつまずきが後に響いてくることがあります。早い時期にこれを見つけてあげて、支援や訓練をすることで、根本的な解決には至らないまでも社会生活をスムーズに送ることができるのではないかと思います。子どもたち皆が生き生きと社会生活を送れる後押しを続けていけたら良いなと思っています。

■参考文献
(1) https://www.literacyhow.org/wp-content/uploads/2016/02/WLF-FINAL-ECONOMIC-REPORT.pdf
(2) https://www.nii.ac.jp/news/release/2016/0726.html