特別連載
NTTの技術レガシー 東京2020大会会場で見たムーンショット
ノンフィクション作家の野地秩嘉(のじつねよし)氏による、NTT研究所の技術をテーマとした「ムーンショット・エフェクト──NTT研究所の技術レガシー」を2020年9月から2021年8月まで、12回にわたって連載してきました。今回は連載の総まとめとして、超高臨場感通信技術 Kirari!の体験を通した「NTTの技術レガシー 東京2020大会会場で見たムーンショット」です。本連載に掲載された記事は、中学生向けに新書として出版予定です(NTT技術ジャーナル事務局)。
■セーリングとバドミントンの現場で
あらためて説明すると、「ムーンショット」とは、遠い未来のことまでを視野に入れた計画で、実現すれば大きなインパクトをもたらす壮大な目標・挑戦を指す言葉だ。
かつてアメリカのジョン・F・ケネディ大統領がアポロ計画について述べたスピーチが言葉の由来とされている。
「1960年代が終わる前に、月面に人類を着陸させ、無事に地球に帰還させる」。
スピーチにある通り、1969年にはアポロ11号が月面に降り立った。
NTTがムーンショットと考える技術をお披露目するひとつの機会が東京2020オリンピック・パラリンピックだった。私は3年前の2018年からNTTのスタッフに取材を進め、さらに大会が始まったら、現場に出かけて行って、ムーンショットの技術が実際にどのように使われているかを見てきた。
さて、ひとつ覚えているシーンがある。
コロナ禍になって、東京2020大会の延期が決まった。NTTのスタッフはさぞ落胆しているだろうと思って、横須賀にある研究センタを訪れた。すると、出迎えてくれた木下真吾(現 NTT人間情報研究所)は微笑していた。そして、こう言った。
「野地さん、あと1年あればKirari!(超高臨場感通信技術)はもっといいものなります」
木下たちはその時点までに数年以上、開発と研究に時間を費やしていた。大変な苦労だったのに、彼らは苦労を表面に出さなかった。
大会が延期になっても動じることなく、すぐに改良に取り組んだ。そして驚くのは、大会が始まってからも、彼らはまだ、Kirari!の研究と改良を続けていたのである。Kirari!はまだ完成していない。永遠に改良を続けているところがKirari!をムーンショットと呼んでもおかしくない理由だ。
■江の島会場のワイドビジョン
Kirari!が活用された現場はセーリング(ヨット)競技が行われた江の島会場、バドミントンが行われた武蔵野の森総合スポーツプラザの体育館だ。
江の島会場へは2日間通った。Kirari!を使った全長55メートルのワイドビジョンはヨットハーバーにある突堤近くの海面に設置されており、選手、関係者とも競技期間中、毎日、朝から晩までワイドビジョンに見入っていた。
すぐ横にはテレビ中継用の大画面モニタも据えてあった。しかし、そちらに注目する人はいない。それは画面の大きさがせいぜい数メートルといったところで、ワイドビジョンとは比べるべくもなかったからだ。さらに、画質がまったく違っていた。Kirari!のワイドビジョンは海面とヨットを鮮明に映し出していたが、テレビ中継画面のそれよりも格段に優れていた。
結論からいえば、ワイドビジョンを使うKirari!はセーリングやロッククライミング、エアレースといった、人が直接、競技現場へ行くには難しいエクストリームスポーツをライブ配信するのにもっとも向いている。
むろん、テレビカメラだって、そういったスポーツを中継放送することはできる。しかし、Kirari!ほど鮮明に映し出すことはできないし、また遅延なくリアルタイムで届けることはできない。
それは通信技術のレベルが違うからだ。Kirari!は光ファイバネットワークと5Gの無線技術で成り立っている。テレビ地上波の放送信号よりも格段に大容量で送信されているのである。
■セーリング競技とKirari!
セーリング競技の見どころとは次のようなものだ。
「海上に設置されたブイを決められた順に回り、ゴールの順位を争うセーリング。大小さまざまなヨットにウインドサーフィンを加え、男女合計10種目が行われる。大自然を相手にするため、重要になるのは風と潮の流れを見極める能力。刻々と変化する風をつかむため、ヨットはコースに沿って前に進むだけでなく、ジグザグ走行することもある。また、複数の選手が一斉にスタートするので、他とのポジション争いも激烈だ」。
競技は浜から遠い海上で行われる。通常はハーバーの沖合、300メートルから500メートル、水深が40メートル程度の海域で行われる。だが、江の島会場付近には漁業者が定置網を設けていたこともあって、さらに遠くの沖合で、しかも水深が100メートル近い海域だった。
そうなると、突堤に立って双眼鏡で眺めてもヨットはミニチュアの船くらいにしか見えない。つまり、この競技は船を出して海の上で見る、もしくは船やドローンで撮影した映像でしか見ることのできない競技なのである。
実際、私はゴムボートに乗せてもらって、海の上からも競技を眺めた。それでも近くに行けるわけではない。選手たちのヨットを妨害することになるから、100メートル以上は離れていなくてはならないのである。
広い海の上で、風を受けて走るヨットは直線的に走るのではなかった。風を受けてジグザグに走ったり、方向転換をする。素人はいったい、どの艇が先頭に立っているのか、よくわからない。
そこで役に立ったのがKirari!だ。江の島では船の上の4台の4Kカメラで撮影した映像を瞬時にひとつの画面にすり合わせ、切れ目のない画面にしてあった。それを前述のようにハーバー内に設置した全長55メートルのワイドビジョンに映し出した。
横幅が広い画面だから、散らばったヨットの位置関係も手に取るようにわかり、どの艇がリードしているかも一目瞭然だ。
これまでにも複数の映像をひとつの画面に構成することができなかったわけではない。しかし、リアルタイムでは不可能だった。一度、撮った映像を人間が時間をかけて編集していたのである。
日本セーリング連盟の河野博文前会長は「Kirari!のおかげでセーリング競技は誰もがわかる競技になった」と言った。
「沖合で行うセーリング競技は孤独な戦いです。Kirari!により競技を知らない人たちでも海の体験を共有することができます。競技の結果がわかることもさることながら、海へ出てヨットに乗りたいという人が増えると思う。私たちにとっても選手にとってもありがたいのがKirari!です」。
■バドミントン競技のKirari!
セーリング競技に使ったKirari!は現場の様子をそのまま再現したものだが、バドミントン競技のそれは選手とシャトルだけを抽出してパブリックビューイングの会場に転送したものだ。むろん、リアルタイムである。
私が見たのは青海の日本科学未来館で行われた「スポーツ観戦の未来 〜次世代臨場感テクノロジー実証プログラム〜」と題したデモンストレーションである。
これもまた木下のチームが開発しており、彼は技術の難しさを次のように語った。
「映像の中から被写体を抽出する場合、一般的にはグリーンバックやブルーバックなどの背景を用意して、クロマキーなどで背景色を消します。でも、Kirari!はブルーバックなどがなくても、現場の映像からリアルタイムに被写体のみを抽出できるのです。
ちょっと難しい説明になりますが、この抽出にはAI(人工知能)が使われており、AIが必要とする情報源として、入力画像に疑似深度画像などを加えました。そしてバドミントンコートの空間に最適化した深層学習モデルを作成したのです。そうして、バドミントンのように動きが速く、コートの手前と奥で選手が分かれる競技でも、個別に選手を抽出することができました」。
日本科学未来館の一室には実際の競技会場と同じ高さの観客席が設置してあった。視線の先にはコート、ネット、2枚のハーフミラー、LEDディスプレイ・プロジェクタがあった。武蔵野の森総合スポーツプラザで行われていたダブルスの試合が転送されてきたのを見たが、人物については、実物と同じような大きさ、動きが再現されていた。
ただし、シャトルについてはすべての動きを追うことができたとはいえない。選手がスマッシュすると、シャトルの映像は一瞬消えてしまうのである。
スマッシュした場合、シャトルの速度 は最高で493キロだという。東北新幹線の最高速度(320キロ)より断然早く、球技の初速ではもっとも速い。カメラで追うこと自体がそもそも難しいのである。それを考えると、木下たちの次のミッションはバドミントンのスマッシュを抽出して、転送することだ。
なお、私は武蔵野の森総合スポーツプラザで行われた実際の競技も見に行った。誰もいない観客席に短時間座ってみた。オリンピックの本番が始まると競技会場の空気は一変し、選手以外、誰一人として声を出さない。息を止めてコートのなかの選手を見つめる。
張り詰めた空気のなか、選手はスマッシュすると、「ハッ」と気迫のこもった声を出す。
そうだ、気迫だ。
会場の緊迫した空気と選手の気迫は今のKirari!ではまだ再現できない。
木下たちNTTスタッフの次の課題はスマッシュのシャトルを抽出することと、もうひとつは選手の気迫をどう再現するかだ。
■ゴールボール
パラリンピックのライブイベントでもKirari!は活用される予定だった。種目競技はゴールボールである。
ゴールボールとは…。
「視覚に障がいのある選手がアイシェード(目隠し)を着用し、得点を奪い合う。試合は1チーム3人、バレーボールと同じ広さの18メートル×9メートルのコートを使って行われ、所定のエリアからボールを転がして相手ゴールを狙う」(NHKパラリンピックホームページより)。
ボールのなかには鈴が入っていて、選手は音を頼りにしてボールをゴールに入れたり、防いだりする。
Kirari!の音響技術を使い、競技コートの音空間をそのまま横浜市にある盲特別支援学校の一室に創り出し、ライブイベントを行う計画だった。
私はその音空間を準備していた段階で実際に体験している。
実際に競技コートのなかでアイシェードをして音を聞いてみると…。
ボールが遠くから近くに転がってくる音が完全に再現されていた。ボールがぶつかってくるのではないかと手で頭を守ったり、体を引いてしまった。聴覚によるゴールボールの観戦体験(耳で見るゴールボール)は完全に実用化されている。テレビ放送で見るだけでなく、耳による体験をすると、ゴールボールの迫力を感じることができた。
■支える人たちがいないとオリンピックはできない
話は江の島のセーリング会場に戻る。
私が出かけて行った時、気温は34度だった。ヨットハーバーに日陰はない。まして、Kirari!の4Kカメラで撮影するクルーは朝から晩まで船の上にいた。真っ黒に日焼けしていて、顔は火ぶくれしていた。彼らだけではない。入り口で関係者の持ち物をチェックする組織委の係員、自衛隊の人たちも汗だくで仕事をしていた。
コロナ禍のなかの東京2020オリンピック・パラリンピックだから、感染対策もしなくてはならなかった。誰もが普通の大会以上の努力をしていたのである。
今回のオリンピック、パラリンピックは選手たちの躍動が私たちに忘れていた活力を与えてくれた。コロナ禍のなかでも、スポーツを見て感動する自由はある。
オリンピック、パラリンピックは選手たちの祭典だ。しかし、選手たちを支えるスタッフがいなければ成り立たない。ムーンショットとなるような技術は支えるスタッフたちが作り出していた。
野地 秩嘉(のじ つねよし)
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。日本文藝家協会会員。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『ニューヨーク美術案内』など多数。『トヨタ物語』『トヨタに学ぶカイゼンのヒント』がベストセラーに。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。近著は『日本人とインド人』(翻訳 プレジデント社)。新刊3冊好評発売中、『あなたの心に火をつける超一流たちの「決断の瞬間」ストーリー』 (ワニブックス)、『新TOKYOオリンピック・パラリンピック物語』(KADOKAWA)、『京味物語』(光文社)。