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本当に「触りたい」触覚コンテンツの新たな地平へ「触りたさの科学的理解とクロスモーダル知覚に基づく触覚提示法の提案」

さまざまな触り心地を表現する「触覚提示技術」は日々進歩を続けています。その一方で「どのような触覚体験が人々の心に響くのか」といった部分は解明されておらず、触覚コンテンツの普及はあまり進んでいません。人の心に響く触覚コンテンツの創出のためには、私たちが「何を触りたい」と思うのかといった触覚の心理学的側面を解明していくことが今後必要となります。今回はSNSなどの大規模データから「触りたさ」を解き明かし、簡易な触覚提示法を活用することで将来の触覚コンテンツの普及をめざす「触りたさの科学的理解とクロスモーダル知覚に基づく触覚提示法」について、宇治土公雄介特別研究員にお話を聞きました。

宇治土公 雄介
NTTコミュニケーション科学基礎研究所特別研究員

PROFILE

2016年東京大学大学院修士課程修了。同年、株式会社日立製作所入社。2020年電気通信大学大学院博士課程修了。同年、日本電信電話株式会社入社。2022年より特別研究員。人の触知覚特性の解明と知覚特性を活用した触覚提示に関する研究に従事。IEEE World Haptics 2021 Best Video Presentation、IEEE Haptics 2020 Best paper 2nd Honorable Mentionなどを受賞。

SNSの大規模データから「触りたさ」の解明に迫る

■「触りたさの科学的理解」とはどのようなご研究なのでしょうか。

「触りたさの科学的理解」とは「人がどのようなものを触りたいと思うのか」「なぜ触りたいと思うのか」という謎を心理学的アプローチによって理解する研究です。このような研究を進め、従来の研究であまり調べられてこなかった「触りたさ」に対する理解を深めていくことで、人の心に響く触覚コンテンツの創出に向けて知見を提供できるのではないかと考えています。
触覚とは異なり、視覚や聴覚は情報提示技術が普及しており、また現在世の中には魅力的な音楽や映画コンテンツがあふれ、私たちは各々が「見たい」「聴きたい」と思うコンテンツを体験することができます。その一方で、触覚に関しては触覚提示技術の研究開発が進んできているものの、身の回りに「触りたい」と思う触覚コンテンツはまだそれほど普及していないというのが現状です。その理由の1つとして「どのような触覚体験が人の心に響くのかがよく分かっていない」という点が大きいと考えています。従来の「触りたさ」に関する調査では主に実験室で実刺激を用いた被験者実験を行っていましたが、この方法では実刺激として日常で私たちが触る対象をカバーできないことや、データのサンプル数が少ないことや、被験者が「実験者が求めている結果」を意識することで結果にバイアスがかかってしまうことなどが原因で、日常における潜在的かつ複雑な触りたさを抽出するのが困難でした。
そこで私の研究では、SNSに蓄積された「日常で発生した触りたさ」に関する大規模なテキストを収集し、触りたさを日常のさまざまなシチュエーションの観点から網羅的に解析することをめざしています。SNSの大規模データに基づき人が「どのようなシチュエーション」で「何を触りたいのか」を基礎研究として明らかにすることで、人の心に響く触覚コンテンツへの洞察を得て、その洞察をベースに「どこに注力して技術開発をするべきか」を定義することが可能になります。例えば「休日に家のリビングで猫に触りたい」という需要が強いことが分かれば、猫の毛並みや肉球の触感を提示する技術の開発に優先的に取り組むという意思決定ができ、将来的に人の心に響くコンテンツ創出につながるのではないかと考えました(図1)。

■これまでの「触りたさ」に関するご研究では、どのようなことが具体的に分かったのでしょうか。

「触りたさ」に関するデータを集める中で、人が日常で触りたいと思う対象は「極めて少数の対象に限定されている」ということが分かりました。私たちの周りには触ることができる対象が無数に存在し、「触りたい」と思う対象も多岐にわたるだろうと予測していたため、この結果は意外でした。触覚提示研究のデモンストレーションでは、その研究の強みとして多様な対象の触感を表現可能であることがアピールポイントの1つになることがよくあるのですが、今回の研究結果によって、多様な触感を表現できないとしても、特定の触感を再現できれば人の心を動かすことができるかもしれないことが示唆されました。また人が触りたいと思う対象は全体的に「モノ」よりも「人」や「動物」など生物に偏っていることが分かりました。そのため、恋人や家族と遠隔で触れ合ったり、メタバース上でバーチャルなアバターと触れ合ったりするコミュニケーションを実現するコンテンツや、猫や犬などの動物に触れて癒されるコンテンツなどを実現することで、このようなコンテンツが人の生活に溶け込む未来がくるのではないかと考えています。さらに、触りたい対象とその触り方には一定の関連性があることも判明しました。例えば「撫でたさ」と「猫」には強い関連性があるため、「猫を触る」というコンテンツをつくるときには、まずは撫でるときの触感を表現することに重きを置くという方針策定ができるかもしれません。
この研究は新型コロナウイルス感染症拡大の中で「自宅で進められる研究はないだろうか」というきっかけで始めた研究でもあるのですが、実は「触りたさ」が感染拡大時に変化していることも分かりました。2020年の新型コロナによる緊急事態宣言発令ごろから、人や動物など生物の肌のぬくもりを求める「スキンハンガー」と呼ばれる現象が人々の間で発生していることを示唆する結果が得られました。おそらくこれは感染拡大時のソーシャルディスタンスの確保や外出制限などによって触りたさに影響が出たのではないかと考えています(図2)。この結果から、コロナ禍ではリモート環境下でも他者との触覚的なつながりを実現する技術が求められていたことが分かりました。そして同様にお金やドアノブなど感染を想起させる非生物への「触りたくなさ」もこの実験で判明したため、実際に触らなくても触感を与えられる技術についても、このようなウイルス感染拡大時には必要とされることが分かりました。さらに一連の研究によって、触りたさは「静的」なものではなく、イベントによって変化する「動的」な性質を持つという点が明らかになり、これは触りたさの複雑さを示す興味深い発見です。

■「クロスモーダル知覚に基づく触覚提示法」ではどのようなご研究をされているのでしょうか。

これまで得られた「触りたさ」に関する知見に基づき、触感を人に与える具体的な技術として検討しているのが「クロスモーダル知覚に基づく触覚提示法」です。「クロスモーダル知覚」とは、例えばイチゴのにおいのする赤いかき氷を食べたときに、それが無味であるにもかかわらずイチゴの味がするという現象で、ある感覚に対応する知覚が別の感覚器の入力によって影響を受けるというのがポイントです。これを指で何かを触るときの触感提示に用いると、物理的な触刺激を伴わずに視覚情報として指や対象の動きの見え方を変化させるだけで、疑似的な触感を感じさせるというような応用が可能となります。この技術を用いた研究として、ディスプレイのスワイプ操作でスクロール量を制限することによって、ディスプレイにないはずの「重さ」を知覚させる触覚提示法などを提案しています(図3)。
従来の触覚提示装置は高価なものが多く持ち運びも困難であったため、実際に「各家庭に1つ」のような普及の仕方は難しいという問題がありました。「クロスモーダル知覚」を触覚技術に応用することで、手軽かつ安価に機能する仕組みに基づく触覚提示技術につながるのではないかと考えています。
「クロスモーダル知覚に基づく触覚提示法」の検討では、個別の提示方法の提案に加えて、提示方法の体系化にも取り組みました。クロスモーダル知覚に基づく触覚提示法として、これまでさまざまな方法が提案されてきました。例えばモノを持ち上げたときの重さ感を表現する方法や、モノの表面を撫でたときの粗さ感を表現する方法など、さまざまな触感表現の方法が提案されています。ところが以前は、これらの方法に関する知見(方法や限界など)は個別の論文に断片的に掲載されているのみといった状況でした。そのような状況では、研究者や触覚コンテンツの開発者が知見を効率的に得ることができません。そこで2000年代から今にいたるまでの関連研究を網羅的に調査し、ユーザに対して表現したい触感・ユーザの入力方法・視覚刺激の切り口に基づき、触覚提示法を整理しました。この仕事は網羅的な調査や意義のある切り口に基づく情報の整理が必要であるという点でコンサルワークに近く、研究者としての普段の仕事では使わない脳の使い方を必要としたため大変だったのですが、その分得られる個人的な学びも大きかったのです。また分野への貢献としても大きく、「クロスモーダル知覚に基づく触覚提示法」の現在地がクリアになり、これまでの検討の中で漏れている個所を発見することもできました。

「使われる」触覚コンテンツを創出し、触覚分野にパラダイムシフトを起こす

■現在のご研究で苦労している点について教えてください。

SNSの大規模データを用いて「触りたさ」に関する分析を進める中で「触りたさについての情報を本当に実験で得られているのか」という点では苦労しています。「触りたい」という欲求は人のプライベートな領域に踏み込む研究テーマである一方で、SNS上のデータはユーザが外部に向けて公開したい情報であるため、公開されたデータが触りたさを反映しているかについては慎重になる必要があります。またSNSによってはユーザの性別や年齢が偏っており、結果にバイアスが生まれます。このような問題に対して、私の研究ではSNSにおけるデータに加えて、オンライン実験で大規模にデータを収集した結果を突き合わせることで、データ収集手段に起因するバイアスをなるべく明らかにすることを心掛けています。現在までの研究で「触りたい対象」については分かってきた一方で、その対象のどのような触感を提示するべきかや、どのようなシチュエーションがより望まれるかというところまではまだ具体化できていません。そのため今後は「触りたい対象のどのような触感が求められているか」「どのようなシチュエーションでの触る体験が求められているか」を具体化することを目標に研究を進めています。
またクロスモーダル知覚に基づく触覚提示法では、人によって感じ方の度合いに差があるという点が問題です。実際にデモンストレーションをさまざまな人に対して行う中で、人によって感じ方が変わることや、年齢による感じやすさに違いがあることが分かってきています。そのような感じ方の違いを生む要因を解明することによって、触覚を提示する際のキャリブレーションに知見を活かして、触覚提示する際の個人差低減をめざしています。また人の身体を物理的に刺激する従来の触覚提示装置と比べて、現在のクロスモーダル知覚による触覚提示法では感じられる触感が軽微であるという問題もあります。これを解決するためにも、簡易な触覚提示装置による物理刺激と組み合わせることなどを行い、今後はより強力なクロスモーダル知覚による触覚提示法を探索していきます。

■研究の成果によって今後どのようなことが可能になるのでしょうか。

「触りたさの科学的理解とクロスモーダル知覚に基づく触感提示法の提案」で得られた成果を用いることで、NTTが提案するIOWN(Innovative Optical and Wireless Network)構想のさまざまな要素に貢献できるのではないかと考えています。例えばIOWN構想の3つの柱のうちの1つであるデジタルツインコンピューティング(Digital Twin Computing)においては、触りたさの理解によって生み出された「人の心に響く触覚コンテンツ」をサイバー世界に実装することで、デジタルツイン自体の訴求力向上に貢献できます。またサイバー世界でデジタルツインの体験した触覚体験をフィジカル世界のユーザに伝えるための仕組みとして「クロスモーダル知覚に基づく触覚提示法」を用いることで、特殊な装置なしで自然な触覚体験を提供することが可能になります。

■最後に、研究者・学生・ビジネスパートナーの方々へ向けてメッセージをお願いします。

触覚に関する研究分野に私自身も長くいますが、研究内容があまり一般の方には知られておらず、また触覚コンテンツが普及しそうな見通しがあまりクリアに見えない現状には少し寂しさを覚えます。これを打破していくために、一般の方に広く簡単に使ってもらえるような技術やコンテンツの下支えになるような成果を、基礎研究を進める中で生み出したいというのは研究の1つのモチベーションです。今後も将来的に「使われる」技術につながるように基礎研究を推進することを心掛け、また目先の利益ではなく触覚に関する知見を蓄積して将来誰かが何かの洞察を得るきっかけになればよいなと願っています。もしNTTコミュニケーション科学基礎研究所で取り組んでいる私の研究にご興味を持ってくださいましたら、ぜひ一緒に新しい触覚研究の未来を創っていきしょう。