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特集 主役登場

未知に挑む数学研究と夢

異なるものを「つなぐ」抽象化の力

宮﨑 弘安
NTT基礎数学研究センタ
主任研究員

1、2、3……とお菓子を指折り数える幼子はすでに数学者です。お菓子と指という、本来全く異なるものの間に1対1の対応を付け「同じ」とみなすという行為。これは数学的な抽象思考そのものです。実際、数学者アンリ・ポアンカレは『科学と方法』において「数学とは異なるものを同じものとみなす技術である」と述べています。
1個のお菓子、1本の指は実在です。では1という「数」は実在でしょうか。これは哲学的な問いですが、少なくともお菓子や指とは違い「これが1ですよ」と目の前に示すことはできません。数は私たちの頭の中の抽象概念です。
抽象的なものはしばしば「役に立たない」というイメージを持たれがちですが、優れた抽象概念は社会生活を一変させるほどのインパクトを持ち得ます。1、2、3……という「数」の概念は私たちの生活のあらゆるところに入り込み絶大な力を発揮しています。歴史を紐解けば「0」や「負の数」といった数の概念は、1、2、3……に比べればかなり抽象的であるためか、人類社会に受け入れられるまでに時間がかかったようです。しかし現在、0やマイナスは当たり前に使われています。
高校では複素数というものも習います。例えばi2=−1となる数iは複素数です。このような「奇妙な」数は、実生活であまり目にしません。しかし、私たちの生活を支えるあらゆる電子機器を設計するためには複素数が不可欠です。複素数は0や負の数よりもさらに抽象的ですが、徐々に「当たり前」な概念の仲間入りを果たしつつあります。このように、数学が生み出した抽象的な概念は、時間をかけて社会に受け入れられてきました。
20世紀以降、数学は爆発的な抽象化の時代を迎えました。これにより数学の研究は過去に類をみないほど進展し、3世紀以上にわたり未解決だったフェルマー予想の解決などの華々しい果実が得られました。また、その過程で生み出されたさまざまな理論は実社会にも応用されています。例えば有限体上の楕円曲線の理論は暗号技術に広く活用されていますし、図形や空間の特徴量を取り出すトポロジーはデータ解析の新領域を開拓しました。
しかし、数学の進展があまりにも急激だったため、数学者が当たり前に使いこなしているさまざまな概念・理論・技術の多くは、まだ十分に社会に溶け込めていません。この課題を解決するためには、分野を超えたコミュニケーションが必要です。数学者の間でさえ、少しでも専門が異なるとなかなか話が通じないことがあるほどなので、このような「異文化コミュニケーション」は一朝一夕ではかないません。長い時間をかけて少しずつ互いを理解していく必要があります。
NTT武蔵野研究開発センタの本館1階の石碑には、初代電気通信研究所長であった吉田五郎氏の「知の泉を汲んで研究し実用化により世に恵を具体的に提供しよう」という言葉が刻まれています。私たちが所属するNTT基礎数学研究センタの使命の1つは、数学の基礎研究をとおして豊かな「知の泉」を開拓し提供することです。数学はその優れた抽象性のおかげで、一見異なる対象・分野を「つなぐ」力を持っています。本特集記事『数論・代数幾何・表現論が紡ぐ数学の世界』に掲載している記事の相関図のように、センタに所属するメンバの研究領域も緊密につながり合っています。私たちはこのつながりをさらに強めるとともに、数学の外側にも輪を広げていくことをめざしています。
私は昔から「何かと何かの共通点を見つける」ことが好きでした。さまざまな異なるコホモロジーの共通構造を炙り出し「つなぐ」ことを目的とするモチーフ理論を研究することは自然な選択でした。また、多様な分野の研究者が集う分野横断的な環境で仕事を続けてきたのも「一見全く異なる分野との予想外のつながり」を期待してのことでした。物理学、生物学、宇宙論、情報理論といったさまざまな分野の研究者と交流し、時には共同研究を行う中で感じてきたのは、数学は数学者が思う以上のポテンシャルを秘めているということです。もちろん、モチーフ理論のような最先端の数学の理論がそのままのかたちで何かの役に立つことは、それほど多くありません。しかし、数学者が呼吸するように無意識に使っている技法や考え方が、他の分野で驚くほど役に立つ現場を私は何度も目にしてきました。
数学者はどのように仕事をし、どのようにものを考え、どのように話すのか。民間研究所に身を置く数学者として、同僚たちにあるがままの私たちを知ってもらう。そしてあるがままの同僚たちの姿を知る。将来の大きな実りを見据えつつ、交流という種を地道に蒔くことを大切にしていきたいと思っています。

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