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特集 

現実空間とサイバー空間をナチュラルにつなぐ境界としてのメディア・ロボティクス技術の取り組み

VRを用いた運動時の環境適応能力の評価技術への取り組み

高齢者の歩行や自動車運転時の事故を防ぐためには運動機能の向上だけでなく、適切な運動遂行のために環境変化に適応する認知機能の観点も重要だと考え、この運動時の環境適応能力を評価・向上するための技術創出に向けて研究開発を進めています。本稿では、本技術の実現に向けた取り組みを紹介します。

伊勢崎 隆司(いせざき たかし)/渡部 智樹 (わたなべ ともき)
NTTサービスエボリューション研究所

運動時の環境適応能力を評価する意義

高齢者の移動行為に伴う事故である転倒や自動車事故は社会的な問題です。高齢者の歩行時の転倒は死亡要因の多くを占めています。また、高齢者が第一当事者となった交通事故は全体の18.1%を占め、高齢運転者による事故の割合は年々増加傾向にあります(1)。
NTTサービスエボリューション研究所では、ユーザの運動機能を慣性情報や表面筋電図の情報から推定する研究を推進してきました(2)、(3)。歩行などの運動や自動車の運転といった移動行為においては、一般的な運動制御モデル、すなわち自身の身体状態や外部環境を視覚・聴覚・体性感覚などの感覚器を通じて知覚する知覚プロセス、知覚した情報を脳内で処理して筋骨格系に指令を送る認知プロセス、脳からの指令を受けて収縮・弛緩する筋骨格系の機能である運動プロセスといった一連のプロセスで遂行されていると考えられます。高齢者の歩行時の転倒や自動車事故の要因を把握して未然に事故を防ぐためには、運動以外の機能に対しても目を向ける必要があると考えています。レイモンド・キャッテルは知能に関して「結晶性知能」と「流動性知能」という2つの観点に分類しました(4)。流動性知能は新しいことを学習する能力や、新しい環境に適応するための問題解決能力などのことであり、年齢とともに衰えるといわれています。一方で、結晶性知能は個人が長年にわたる経験、教育や学習などから獲得していく能力であり、年を重ねても安定している傾向にあります。歩行や自動車の運転を行っている際、慣れ親しんだ道だけでなく不慣れな道を走行するような状況や、歩行者が急に飛び出してくるような想定外の状況が度々発生します。時々刻々と環境が変化する中で適切な運動遂行を実現しなければならないような条件下においては、このような流動性知能的側面、すなわち不慣れもしくは想定外な環境に対して即時に適応するような認知的能力が重要と考えています。
上記の背景を踏まえ、ユーザにとって不慣れもしくは想定外な環境に適応して運動遂行する能力を評価し、さらにはその能力を向上させることが移動行為に伴う事故を防ぐために重要であると考えました。

VRで運動時の環境適応能力を評価するシステム

■不慣れな環境による環境適応能力評価

ユーザの環境への適応能力を測るためには、不慣れもしくは想定外な環境(不慣れな環境)でのユーザの挙動を観察し、その環境やユーザ対応の身体運動を評価分析する必要があります。近年ではさまざまなメーカからコンシューマ向けVR(Virtual Reality)システムが販売されており、一般ユーザも手軽に利用できるようになりつつあります。VRであればさまざまな環境を模擬・再現し、環境におけるユーザの運動情報やその際の環境情報を得ることができます。私たちは、このVRを用いてユーザにとって不慣れな環境を構築し、その環境における運動とパフォーマンスを観察することで運動時の環境適応能力を評価することができないかと考えました。
運動時の環境適応能力の評価をするためには、環境適応能力の善し悪しに応じて異なる挙動が含まれるような身体情報を分析する必要があります。上肢(上腕・前腕・手を含めた総称)の巧緻性(上手さ)は認知機能と関連があるといわれています(5)。 この認知機能の1つに運動時の環境適応能力があるととらえると、この「上肢巧緻性」に着目することで運動時の環境適応能力の評価が行えるのではないかと考えました。上肢巧緻性を評価する手法は複数ありますが、巧緻性の対象となる上肢運動の基本機能としてスペーシング、タイミング、グレーディングの3つの機能が挙げられています(6)。スペーシングは手を正しい方向に動かす機能、タイミングは手の運動において正しい時間調整を行う機能、グレーディングは手の運動において正しい力加減を行う機能です。上肢巧緻性に基づいて運動時の環境適応能力を評価する手法をVRで実装していくにあたり、NTTサービスエボリューション研究所では、名古屋大学 情報学 森健策 教授、小田昌宏 准教授と名古屋大学医学部 手の外科 平田仁 教授、大山慎太郎 特任助教との共同研究を進めています。
上肢巧緻性に関連する具体的な運動として、「落下するボールを掴むタスク」に着目しました。ユーザにとって不慣れな環境を模擬するために、実世界の挙動と差異が生じるように3つの観点を考慮しました。1番目は対象物(ボール)の特性変化です。具体的には対象物の重力加速度や、対象物の大きさの変化を検討しており、これらをパラメータとして変更可能なように実装しています。2番目は環境空間の特性変化です。具体的には対象物がバウンドするような障害物や対象物(ボール)の加速度が3次元的に変化するような空間を検討しました。これらの障害物や空間を任意の領域に任意の反発係数や加速度を設定可能なように実装しました。3番目はユーザの運動特性変化です。実世界での上肢運動量に対して過大・過小にVR空間のアバタが運動するように運動の射影係数をパラメータとして設定しました。

■プロトタイプの利用風景

本システムのプロトタイプの利用風景を図1に示します。本タスクでは特定領域(赤い領域)が障害物となり落下するボールがバウンドする環境、すなわち環境特性の変化を模擬しました。ユーザは複数回の試行を経て不慣れな環境に適応し、ボールを安定的に把持できるようになります。本システムは特定の環境におけるタスク遂行中のユーザの運動情報(コントローラを通じて計測)とタスクのパフォーマンスを計測します。1タスクの時系列的なユーザの動作(図1(a))とVRにおけるユーザ視点(図1(b))を表しています。図1(a) で示すように、実世界にてユーザはVRシステムであるHMD(ヘッドマウントデバイス)やコントローラを装着します。図1(a)のディスプレイに表示されている映像は、ユーザがHMDを通じて取得するVRの情報です。ユーザがHMDを通じて見る映像を抽出した情報を図1(b)に示します。図1(b)左は赤いボールが上部から落下しているシーン、図1(b)中央は障害物(赤い領域)でボールがバウンドしているシーン、図1(b)右ではバウンドしたボールを把持しているシーンです。
1ユーザの本タスクを複数試行した際の累積成功数(a)と運動再現性(b)をグラフ化したものを図2に示します。運動再現性については試行間の運動情報の相関係数を求めています。試行回数を重ねるごとに累積成功数や運動再現性が向上していることが分かります。試行を重ねた際の成功率や運動再現性といったパフォーマンスの変化を定量化することで運動時の環境適応能力の評価が可能になると考えており、これら計測値の定量化手法の検討を進めています。

今後の展開

本稿では運動時の環境適応能力を評価するためのVRシステムを紹介しました。環境変化に適応する過程の運動情報とパフォーマンスの計測が行えるようになりました。プロトタイプで構築したVRシステムのタスクや構成のアップデートを進めつつ、計測した運動情報とパフォーマンスを用いて「運動時の環境適応能力」という認知機能を評価する手法についてはさまざまな属性の被験者のデータに基づいて検討を進めていく予定です。
評価した適応能力が実世界にどのような意義を持つのかについては、転倒や自動車事故などの移動に伴う事故だけでなく、物忘れといった広範的な認知機能との関連を調査していく予定です。また、本システムの利用を通じて運動時の環境適応能力を向上する方法についても検討を進めていきます。
コロナ禍においては外出が満足にできないような状況がたびたび訪れることと思います。在宅での身体機能トレーニング技術の必要性はこれまで以上に高まると考えています。筋肉量の向上といった運動機能の向上機器はいくつかプロダクト化が進んでいますが、本技術で対象とするような認知的側面のトレーニングもこれからは普及していくと考えています。将来的にさまざまな観点の認知機能に対して評価・向上する技術を創出し、評価・トレーニングシステムとして各家庭への実装を通じ、皆様の健康寿命の延伸に貢献していきます。

■参考文献
(1) https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kotsu/jikoboshi/koreisha/koreijiko.html
(2) T. Isezaki, N. Fujii, S. Ishii, T. Watanabe,and O. Mizuno: “Physical Function Estimation Based on Inertial Data of the Motion of Stepping Over an Obstacle,” EMBC 2016, Orlando, U.S.A., August 2016.
(3) T. Isezaki, H. Kadone, A. Niijima, R. Aoki, T. Watanabe, T. Kimura,and K. Suzuki:“Sock-Type Wearable Sensor for Estimating Lower Leg Muscle Activity Using Distal EMG Signals,”Sensors,Vol. 19,No. 8,April 1954.
(4) R. B. Cattell:“Theory of fluid and crystallized intelligence: A critical experiment,” Journal of Educational Psychology, Vol. 54,No. 1,pp. 1–22,1963.
(5) J. Y. Yoon,T. Okura,K. TSUNODA,T. TSUJI,Y. Kohda,Y. Mitsuishi,C. Hasegawa,and H. Kim:“RELATIONSHIP BETWEEN COGNITIVE FUNCTION AND PHYSICAL PERFORMANCE IN OLDER ADULTS,” Japanese J. Phys. Fit. Sport. Med., Vol. 59, No. 3, pp. 313–322, 2010.
(6) 福意・井上・常久:“上肢巧緻性評価機器の開発─臨床適応の検討─,” 川崎医療福祉学会誌, Vol. 17, No. 2, pp. 389–394, 2008.

(左から)伊勢崎 隆司/渡部 智樹

まだまだ検証すべき課題がたくさんありますが、ユーザが心身ともに健康でいることを支援する技術の創出に向けてこれからも研究開発を推進していきます。

問い合わせ先

NTTサービスエボリューション研究所
サイバネティックインテリジェンス研究プロジェクト
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