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運動学習には「眼と腕の位置関係を一定に保つ」ことが重要。運動に関する脳内の働きを解き明かす「感覚運動生成」の研究
「ボールを良く見る」など、スポーツの世界ではよくヒトの「眼」について言及されます。今回は、特に無意識下の運動について、眼と腕の関係性を解き明かす「感覚運動生成」の研究に従事し、スポーツやユーザーインタフェースなど実社会への新たな価値提案をめざす安部川直稔特別研究員にお話を伺いました。
安部川直稔 特別研究員
NTTコミュニケーション科学基礎研究所
PROFILE
日本電信電話株式会社NTTコミュニケーション科学基礎研究所(2005年4月)、同研究主任(2013年7月)、同主任研究員(2016年7月)、同特別研究員(2020年4月)。2012年10月~2014年3月 京都大学情報学研究科知識情報学専攻社会人博士課程。2015年3月~2016年3月 University College London、 Institute of Cognitive Neuroscience客員研究員。
NTTの基礎研究―感覚運動生成とは
◆研究されている内容を教えてください。
私はもともと「人間が賢いとはどういうことなんだろう」という点に興味があり、大学の卒業研究では画像のパターン認識、つまり現在トレンドとなっている人工知能につながる分野の研究をしていました。その後、「人間そのものを理解したい」という気持ちが高まり、現在の「感覚運動生成」の研究を始めました。感覚運動生成とは、感覚器官から取得した情報を処理し、身体の動きを生成するまでの脳内メカニズムを考えることであり、修士課程も含めると、実に15年以上この分野の研究を続けていることになります。
私は特に「眼と腕」の関係性に注目し、現在は「潜在的な視覚運動生成」「眼と腕の協調運動機構」「身体情報表現の構築」の3つの研究プロジェクトに取り組んでいます。
◆「潜在的な視覚運動生成」について教えてください。
例えば机の上になにかモノがあるとき、私たちはまず眼で見てそれが何であるかを認識し、自分から見た位置を把握し、そこに向かって手を伸ばすという意思決定をし、最後に腕を動かします。こうしたひとつひとつのステップを経て運動する処理を「逐次処理」と言います。
こうした従来の運動生成理論の考え方は随意的、意識的な運動には非常にマッチしますが、一方、スポーツなど非常に厳しい時間的制約のあるケースでは、このような複雑な計算を経た運動が果たして間に合うのか、という疑問が生まれます。そこで私は潜在的、無意識的な運動に着目しました。
例えば、腕運動中に背景の映像をある方向に動かすと、それを無意識に腕が追いかけるという潜在的な運動応答が老若男女を問わず発生します。この運動応答は非常に精密な計測を行わないと観測できませんが、我々のグループの一連の研究により、こうした潜在的視覚運動生成処理が存在していることが実証されてきました。
◆「眼と腕の協調運動機構」について教えてください。
例えば朝食を作るとき、飛んでくるボールを打つといったとき、眼はこれから腕の動いていく先を捉えるよう適切に動きます。つまり眼の運動と腕の運動とは協調関係にあるわけです。この協調関係が潜在的な運動についても成り立っているのか、そしてもし成り立っている場合、それは随意運動と同一のものなのか、それともまったく別個のものなのかを調べるのがこのプロジェクトです。
例えば自転車に乗る練習を考えてみると、最初はいろいろなことを意識しながら一生懸命に乗ろうとしますが、いったんできるようになるとその後はあまり意識しません。我々の分野ではこうした運動スキルの向上を「運動学習」と呼びますが、無意識的な運動学習と獲得した運動の実行において、眼が重要な役割を果たしていること、具体的には、眼と腕の位置関係を一定に保つことが学習効果を高めていると、研究により明らかになりました。
この新しい考え方は生体の運動制御・運動学習系で最難関と言われる国際会議(Advances in Motor Learning & Motor Control, 2019)での発表もアクセプトされました。現在、私が最も注力しているプロジェクトです。
◆「身体情報表現の構築」について教えてください。
このプロジェクトと前述の2つプロジェクトとは多少毛色が異なります。
テニスを例にすると、飛んできたボールをフォアハンドで打ち返すか、バックハンドで打ち返すかを判断するには、ボールが自分の右側にあるか左側にあるかを判断しなければいけません。そしてその際には「自分の身体の中心」を基準とする必要があります。
しかし、視覚や聴覚とは異なり、自分の身体の中心を知覚する器官はありません。おそらくいろいろな感覚器や自分の知識、経験などをもとに自分の身体の中心、すなわち身体中心という表現が形成されるものと思われますが、こうした身体情報表現の構築過程を探ろうというプロジェクトです。
具体的にはGVSという電気刺激を脳の前庭器官に流す実験により、身体中心表現が動くことが確認でき、前庭からの情報が身体中心に深く関与していることが明らかになりました。
本プロジェクトは2015年のロンドン留学中に取り組んだもので、すでに論文化など一定の成果を上げています。
将来的には運動統一理論を打ち立て、ヒトの本質的理解につなげたい
◆将来どのような分野での応用が期待されているのでしょうか。
野球やテニスなどプロスポーツの世界では「ボールを良く見なさい」や「私は本当に調子が良いときはあまりボールを見ないんです」など眼に言及する選手・コーチなどが結構いらっしゃいます。しかし、それが「なぜなのか」を突き詰めて考えてみると、なかなか説明に困ります。
私はこうしたメッセージが「ある決まった一点を見る」のではなく、むしろ「眼と腕の位置関係を一定に保ったうえで、その状態で学んだものをしっかりと再現する」ことに重要な意味があるのではと考えました。
現場レベルで語られていることを研究レベルに落とし込み、解明された眼と腕の協調機構を活かすことにより、スポーツトレーニング、リハビリなどの分野でのさらなる精度向上、効率向上が見込まれるのではないかと思います。
また、ユーザインタフェースやヴァーチャルリアリティなどへの応用も考えられます。例えばヒトにとって使いやすくアトラクティブなインタフェースの設計をめざした場合、ヒトがどのように感じ、どのように身体を動かすかについて、本質的に理解する必要があります。ヒトの運動には随意的な運動と潜在的な運動の両方が含まれていますが、ヒトが感じる「心地よさ」には随意的な運動だけでなく、潜在的な運動も密接にリンクしている可能性があります。
さらに中長期的には、IOWN(Innovative Optical and Wireless Network)がめざすデジタルツインコンピューティングにも寄与することでしょう。見た目だけでなく、内面を含めたヒトのすべてをデジタル再現するうえでも、我々のめざす「ヒト感覚運動生成」の本質的理解は確実に必要となるはずです。
◆NTTの強みはどのような点にあるとお考えでしょうか。
やはり多様な専門家が近くにいることです。
私の所属するNTTコミュニケーション科学基礎研究所は人間と情報とを2つの柱と捉えている基礎研究所ですが、情報の分野でも機械学習、AIなど感覚運動生成の分野にも融合できる手法を持った研究者が多数在籍しています。また、私の所属する人間情報研究部にも、運動に加えて、視覚、聴覚、触覚などを対象とする、さまざまな専門家がいます。
さらに研究所内にはプロスポーツ群を中心に、非凡な方々の卓越した能力を脳科学的に解明する柏野多様脳特別研究室があり、我々の実験室環境での記録と実環境での記録との密接なリンクを生み出しています。
初めからコラボレーションありき、で始めるとうまくいかないことも多いですが、新しいテーマや研究は、さまざまな価値観や考え方、手法がミックスされたときに拓けることが多いのではないかと考えており、こうした点はNTTの大きな強みではないかと思います。
◆これから基礎研究に取り組みたいと思っている方へメッセージがあればお願いします。
これから研究者を志す学生や若い研究者には、まずは迷ったらやってみる、ということを伝えたいと思います。まずはやってみて考える。考える際には深さももちろん大事ですが、「いろいろな方向からデータを見る」ということも大事です。そして考えがまとまってきたらもう一段上の視座からそれを眺めてみる。研究は常に苦労の連続ですが、この繰り返しを地道にやり続けることにより自分なりのオリジナリティー、価値観が生まれるのではないかと思います。
また、「素人のように考え、玄人として実行する*」という言葉がありますが、私は最近になってこの言葉が非常に的を射ていることを実感しています。以前、私は「玄人のように考え、玄人として実行する」、つまり研究の深さや専門性、言ってみればマニアックさが勝負どころだと思っていました。ところが、そうして進めた研究にはあまり大きなインパクトがない。実はよりインパクトの高い研究成果は、日常の生活でよく見られること、ふとした機会に不思議だなと思うことなど、社会の皆さまから近い位置にある疑問や現象を、科学的エビデンスを基に理解することだということを認識するようになりました。
研究を進めるうち、眼には腕に対して従来言われている「見ることでより詳細な視覚情報を得る」以上の働きがあるのではないかと考えるに至りました。一般的にも「眼は心の窓」と言われるように、眼は人の意識やマインド、注意力とも密接に関係している可能性があります。こうした点を突き詰め、将来的には随意的な運動と潜在的な運動とを合わせた運動統一理論を打ち立て、ヒトの本質的理解につなげたいと考えています。
しかし、「ヒトを本質的に理解する」という研究は複合テーマであり、日本の大学にはなかなかマッチする学科はありません。そのため、近しい専門性を持つ学生は少ないという状況にありますが、逆に言えば、多様な専門・バックグラウンドを持つ方が参画できる分野であるとも言えます。
NTTでは、修士卒や博士卒などの新規採用はもちろん、中途採用やポスドクなどさまざまなパスを用意していますので、興味のある方はぜひアクセスして欲しいですね。
*:日本のロボット工学者、金出武雄博士の言葉。