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研究開発の強化・グローバル化に向けたNTT Research, Inc. 始動

Medical & Health Informatics Laboratoriesの発足

NTT Research, Inc.に医療や健康(ヘルスケア)の分野における情報技術の基礎研究拠点としてMedical & Health Informatics Laboratories(NTT MEI Labs:生体情報処理研究所)が発足しました。本稿では、生体情報をめぐる社会の変化と新しい研究所の取り組みについて紹介します。

 

友池 仁暢(ともいけ ひとのぶ)

NTT Research, Inc. NTT MEI Labs 所長

生体情報研究の歴史

2018年11月28日、次世代技術の基礎研究を担う3つの海外新研究所の設立がNTTから報道発表されました。医療分野については、「プレシジョン・メディシン(精密医療)につながるAIなど生体情報の分析技術に取り組みます」と方針が示されました。半年余の準備を経て2019年7月1日にMedical & Health Informatics Laboratories(NTT MEI Labs)が発足しました。
生体情報の研究の歴史は1962年日本ME(Medical Electronics and Biological Engineering)学会創立にさかのぼります。近年になって、生体情報の範囲は医療でのICT(Information and Communication Technology)の活用が進むにつれてより広くなってきました。その変化の速さは、Translational Medicineという分野の名称が、数年を経ずしてTranslational Bioinformaticsと変更になったことからも伺えます(1)。AMIA(American Medical Informatics Association)のTranslational Bioinformaticsが何を包含する分野なのかという説明はいまや古典に属するものかもしれませんが、「... the development of storage, analytic, and interpretive methods to optimize the transformation of increasingly voluminous biomedical data into proactive, predictive, preventative, and participatory health. Translational bioinformatics includes research on the development of novel techniques for the integration of biological and clinical data and the evolution of clinical informatics methodology to encompass biological observations.」とあります。研究分野を広くとらえ、かつ研究が何をめざすのか(研究の出口)についても明確にしています。NTTが提唱する Smart Worldに近い概念といえるでしょう(2)。したがって、NTT MEI Labsが取り組む生体情報の範囲は、バイオロジカルな現象だけでなく、診療録の情報、ゲノムの情報、情報処理技術も含まれることになります。
医療の研究は、実験室医学研究、臨床研究(非侵襲・侵襲、観察・介入)、疫学研究に大別されます。生体情報やデータサイエンスはこれらの3領域の対象あるいは解析手段として重要な位置を占めます。このように各研究分野を横断する情報技術を基礎研究対象とした研究所の構想は、NTT MEI Labsのほかに例をみないでしょう。

医療と健康における情報の特徴

診断、治療、予防は診療録に記録として残されています。日本は、国民皆保険が達成されていますので、診療録は医療保健行政の公的記録だともいえます。これらの情報を研究開発に利用することは目的外使用になりますので禁じられてきました。また、臨床研究における情報の収集とその利活用は、患者への十分な説明とその結果としての文書同意が研究実施の前提となります。そのうえで、集められた情報が適正に管理されているという実務と実体を伴うことが研究遂行の条件になります。スマートフォンやさまざまな携帯デバイスのアプリは健康のモニタ情報を提供していますが、それらを収集し、データとして利活用することは、個人情報保護の規定から、臨床研究と同様の手続きが求められています。NTT MEI Labsが海外で臨床の基礎的研究を行う場合は、それぞれの国における個人情報保護法を遵守することになります。米国においてはHIPAA(Health Insurance Portability and Accountability Act)、欧州においては2018年5月25日から改正施行されている「一般データ保護規則(GDPR: General Data Protection Regulation)」の条件を満たさねばなりません。
近年、医療とヘルスケアの領域でもイノベーションが強調されています。産業やビジネスの世界で重要視されている特許や知財についての考え方もこの領域に強く浸透しつつあります。デバイスの開発や生体機能の新規発見等は知財として周到な手続きが必要になっています。したがって、NTT MEI Labsの基礎研究についても規範や規制についての幅広い理解が研究の企画・運営に必要な条件となります。
臨床におけるデータの利活用に関する国内の動きをみると、個人情報保護の理念が、時間をかけて一歩一歩、さまざまな方向で確立されてきた経緯を伺うことができます。診療情報・健康情報の電子化のあるべき姿については、2001年厚生労働省が公表した「保健医療分野の情報化に向けてのグランドデザイン」が嚆矢となりました(3)。「個人情報の保護に関する法律」は2005年に全面施行され(4)、2015年に改正されました。2018年5月には匿名化によるデータの共有などの「医療分野の研究開発に資するための匿名加工医療情報に関する法律(次世代医療基盤法)」が施行されるに至っています(5)。このように、診療データの個人情報保護の受け止め方が多くのコンセンサス、試験的取り組み、法令成立と時間をかけた検討と整備が重畳化して進んできています。
近年、地域医療連携やEHR(Electronic Health Record)における医療情報が異なる医療機関の間で随時に相互に参照することも求められるようになりました。国は、「健康・医療戦略推進法(平成26年法律第48号)」を制定し、医療・介護・健康分野のデジタル基盤の構築を進めています(6)。
このように、生体情報の基礎研究は社会の倫理(Ethical)、法律(Legal)や規範(Social Implication)と密接なかかわりを持ちながら進む領域であることが分かります。このとらえ方はELSIと略称されています(7)。また、その到達点はより良い健康や医療でありますので、社会実装の視点・工夫も欠かせぬ重要な点だと思われます。

データが期待される時代

産業や社会がめざすべき未来社会の姿あるいは技術的なコンセプトとしてIoT(Internet of Things)、Society 5.0、Industry 4.0が提唱されるようになりました。その基本はデジタルデータに基づいた生産性を高めるための取り組みですが、その特徴は情報技術が新しい知識やエビデンスをつかみ出し変革につなげていくという循環による持続的発展の仕組みではないかと思われます。この概念は医療の改革に大きな影響を与えています。例えば、診察時に発生するデータを自動収集し、ICTを駆使してこれらのデータから新たな医学知識を抽出し、その知識を活用してさらにより良い診療を実現するというデータ・ドリブン(data-driven)の循環のシステムです。2007年、IOM(Institute of Medicine、現National Academy of Medicine)は、Learning Health Systemを提案しています(8)。
このように医学医療の分野でデータの集積とICTの重要性が年々高まってきています。AI(人工知能)による画像診断やヒトゲノムの臨床応用などは時代を画する大きな成果だと思われます。このようなことから、ビッグデータやICTをめぐって世界的な競争が始まっています。その緊迫感は、2018年6月米国のNIHの戦略計画、“Strategic Plan for Data Science”に示され、具体的な計画が国レベルで策定されています(9)。その冒頭の文章に、「As articulated in the National Institutes of Health (NIH)-Wide Strategic Plan and the Department of Health and Human Services (HHS) Strategic Plan, our nation and the world stand at a unique moment of opportunity in biomedical research, and data science is an integral contributor.」と記されています。この宣言の根底には2015年大統領の年頭教書で目標として掲げられたprecision medicine initiativeがあると思われます。Precision Medicineは“がんの領域”から広く医療全般に浸透しつつあります。ここでもデータサイエンスは新しい概念の産婆役として実現の要になります。
ICT化の社会環境の変化に呼応するように世界の情報量は指数関数的に増加しています。その量は2017年から2020年にかけて約1.9倍に増加し、2020年には1カ月当り228エクサバイトに達すると予測されています(10)。IoTデバイス数の伸びが見込まれる領域の1つに医療が挙げられています(2014年と2020年の対比で3倍)。医療分野では、ゲノム情報や医療画像等あらゆる情報がデジタル化されてきており、医療IoTの急速な拡大とともにそれらの情報量の増大は今後さらに加速されると予測されます。大きな医療機関では画像診断のためにモダリティごとに大きなサーバが立てられていますが、サイロ化現象やメモリ枯渇化が憂慮されています。このような情報爆発への処方箋としてNTTが取り組む「IOWN(Innovative Optical and Wireless Network)」の医療分野への技術展開が期待されます(2)。情報をどのように分析し総括・活用するのかは、NTT MEI Labsの永続的な課題であると考えられます。

医療におけるデータサイエンスの条件

データとして入力される用語が文字上で同じであってもその定義が専門分野や地域で異なれば、あるいは生体信号が異なるキャリブレーションや特性の異なるデータ処理を経たものと一緒に取り扱われると、集積したデータから新しく知識を獲得することは不可能に近いと思われます。したがって、医療分野こそ、データの標準化はデータサイエンスを成立させるために重要な要素となります。よく知られているものに、画像の標準形式としてDICOM®(Digital Imaging and Communications in Medicine)、用語類の標準規格にSNOMED-CT(Systematized Nomenclature of Medicine Clinical Terms)があります。日本で進められているDPC(Diagnosis Procedure Combination)は、診断病名の標準化をICD10に準拠することで果たしています。NDB(National Database)のレセプト情報、特定健診等の情報はビッグデータとして整備されており、その研究に期待が寄せられています。
医療でのICTは、電子診療録やPHR(Personal Health Record)の運用、あるいは連携診療支援に活用されてきましたが、AIやビッグデータの出現で、その役割は今後ますます大きくなると思われます。ここでも、ICTの標準化が先行して行われなければなりません。診療におけるICTを急速に全国展開できた米国では、法整備(HITEC)と連邦事業体(ONC)が大きな役割を果たしています。
前述した米国の戦略計画では、医学研究のデータは、Findable、Accessible、Interoperable、Reusableであるべきだとしています(9)。データの活用と共有におけるこのFAIR principleは、医療やヘルスケアのデータを扱うときに個人情報保護や守秘義務を尊重しながら行う研究が拠って立つべきデータへの基本的な姿勢と考えられます。

NTT MEI Labsの取り組み

医療の研究は、EBM(Evidence-Based Medicine)から多次元の大量のデータを扱うdatadriven medicineに向けて動き出しています(11)。NTT MEI Labsは、従来の研究分野を横断する“対象”と“情報技術”をテーマにしていますので、医療と健康に貢献できる知見や提案を生み出し、科学的にもインパクトの高い研究が期待されます。研究の質を決めるのは、問題設定の正鵠性、データの質(正確さ、精度、量)、データ集積と分析の速さが肝だといわれています。ここでもSmart WorldとNatural Technologyをめざす「IOWN」が道しるべになるでしょう(2)。医療研究の特徴は、フィールドにおける臨床研究と基礎研究の相互移行性です。基礎研究のテーマや仮説は、臨床現場での観察や研究が端緒となった事例も少なくありません。また、NTT MEI Labsは精度の高いデータをデータバンクやライブラリー化してオープンなかたちに格納する道筋をつくることを目標にしていますので、フィールドや実社会における臨床研究が大切だと理解しています。
生体情報の占める領域は今まで述べてきましたように極めて広範であります。NTT MEI Labsは生体情報の基本と思われる以下の3つのアプローチから研究に取り組みます。
① 生体情報のセンシングと予知、診断、予防、治療のデザイン
② 機械学習、Neural Network等による生体情報の解析と基礎研究
③ 医療や健康のデータベースの基本構造と社会実装に向けての研究

研究の遂行にあたっては北米に位置する地の利を活かして、グローバルスタンダードへの迅速な対応、国内若手研究者と北米や世界の若手研究者との切磋琢磨の研究環境の醸成を併せてめざす所存です。幸い、NTTがめざすSmart Worldの実現に向けて提唱する11分野の技術革新のうち少なくとも7つの分野について、NTT MEI Labsは課題の提案やその実現に向けて貢献できる潜在力を持っています(2)。Bio Digital Twinsの実現(12)は、的確なリアルタイム診断と質の高い治療に欠かせぬ夢の世界ですが、NTT MEI Labsの到達目標として研究を進めたいと思います。

■参考文献
(1) http://www.amia.org/inside/stratplan/
(2) https://www.ntt.co.jp/news2019/1905/190509b.html
(3) https://www.mhlw.go.jp/shingi/0112/s1226-1.html
(4) https://www.ppc.go.jp/files/pdf/290530_personal_law.pdf
(5) https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=429AC0000000028
(6) https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=426AC0000000048
(7) 神里:“情報技術におけるELSIの可能性:歴史的背景を中心に、”情報管理、Vol.58, No.12, pp.875-886, 2016。
(8) https://nam.edu/programs/value-science-driven-health-care/learning-health-system-series/
(9) https://datascience.nih.gov/sites/default/files/NIH_Strategic_Plan_for_Data_Science_Final_508.pdf
(10) http://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/hakusyo/index.html
(11) N.H. Shah and J.D. Tenebaum:“The coming age of data-driven medicine: translational bioinformatics’ next frontier、”J. Am. Med. Inform. Assoc., Vol.19, pp.e2-e4, 2012。
(12) https://www.ntt-research.com/2019/07/08/world-class-research-center-opens-in-palo-alto/

友池 仁暢

 

「新しく研究所が情報科学・技術の世界の震源地に誕生する」、聞いただけでわくわくしませんか。近代日本は開国と同時に通信と医療を国の根幹の1つに掲げ、それぞれの取り組みが始まりました。150年余を経て、“通信”の営みの中に医療の基礎研究が取り上げられることになりました。それも、量子計算、暗号の研究所と同時に動き出すわけで、21世紀全体を見渡した大事業です。Sustainableで豊かな世界への強い願望を現実のものにできるように研究を進めます。

問い合わせ先

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E-mail info@ntt-research.com