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デジタルとナチュラルの共生・共創を支えるコミュニケーション科学

座っていても歩いているような疑似感覚の生成技術

NTTコミュニケーション科学基礎研究所では、座ったままの状態であたかも歩いたような感覚をつくり出す技術を開発し、この擬似的な歩行感によって私たちの脳内表現である自己の身体を取り囲む「身体近傍空間」を前方に拡張することを併せて明らかにしました。本稿では、椅子を上下に揺らし、足裏に振動刺激を与えることによって、実際に歩くことなく歩行したような感覚を生み出す手法を紹介します。

雨宮 智浩(あめみや ともひろ)※

NTTコミュニケーション科学基礎研究所
※ 現、東京大学大学院

VRにおける新たな歩行表現に向けて

近年、VR(Virtual Reality)ゴーグルと呼ばれる頭部装着型ディスプレイ(HMD)のような高性能でありながら低廉なデバイスの登場によりVR技術はゲームやエンタテインメントの分野で注目を集めてきました。さらに、ビジネス向け市場でも応用分野が広がりつつあり、医療分野での外科手術の訓練、生産現場での作業員教育、建設現場での安全教育など、さまざまな業界で注目されています。現在普及しつつあるVR体験ではHMDによる視覚への情報提示が中心ですが、日常生活の実体験では私たちは五感のあらゆる情報を身体を通じて接しているため、視覚だけでなく、複数の感覚への情報提示や、自己の運動感覚の生起が質の高いリアリティを生み出すためには不可欠と考えられています。
特にVR空間では利用者が歩いたり走ったりするような歩行・移動感覚の生成は大きな課題となっていました。実空間には空間の広さに制限があるため、広さの制限のないVR空間を歩き回るには工夫が必要で、例えば、トレッドミルのように歩いた分の移動量を相殺するような手法や、歩いている曲率や経路を気付かれないように調整する手法が数多く提案されてきました。こうした手法はVR空間を歩き回ることに有効ではあるものの、利用者が実際に歩行することを前提としたもので、空間的あるいは身体的な制約により歩行が困難な利用者に対して適用することができませんでした。そこで、NTTコミュニケーション科学基礎研究所では、利用者を実際に歩行させるという前提を見直し、座ったままの状態であたかも歩いたような感覚をつくり出す技術の開発に取り組んできました。本技術によって、例えば自宅のリビングに座ったまま、歩行したような感覚を移動範囲の制約を受けずに体験することができます。本稿では、身体的な多感覚刺激を用いた擬似的な歩行感覚の生成技術と、それを評価するための取り組みを紹介します(図1)。

図1 足底への刺激による疑似歩行感と身体近傍空間の関係

足裏への振動刺激

座っている体験者に対して、視聴覚情報に加えて足裏に触覚刺激を受容したとき、歩行時に生じるような振動波形や歩行周期・タイミングといった特徴が一致する刺激を足底に与えることで歩行感覚に近い感覚が生じることを実験から明らかにしました。
足底は歩行時に地面との相互作用を行うインタフェースであり、足底からの情報から地面の状態や材質を知覚できることが知られています。また、新生児の自立歩行反射*1が知られているように足裏の触覚から歩行動作という一連の流れは生まれつき備わっているシステムでつくられるものと考えられます。このような点から本技術では足裏に着目し、適切な振動刺激を与えることで歩行運動を想起させ、歩行状態を擬似的に再現することを試みています。
具体的には、歩行時に実際に生じた振動を歩行音として記録し、カットオフ周波数120 Hzローパスフィルタ処理や増幅処理を経てボイスコイルモータ(振動子)で振動刺激として足裏に提示します(図2)。実験ではスリッパの踵部分に取り付けたボイスコイルモータによって提示しました。この歩行音の波形を正弦波に変えたり、歩行音の時間間隔を無作為化したりすると歩行感覚が生じないことも確認しました。
*1 自立歩行反射:新生児にみられる反射の1つで、抱えられた状態で足の裏が平坦な地面に触れると、歩行するかのように両足を交互に踏み出す反射のこと。足裏への触覚刺激と歩行運動動作の間に生得的な関係があることを示唆しています。

図2 実験で用いた足底への振動刺激パターン

身体近傍空間の拡張

こうした刺激によって生成される歩行感は、体験者の主観評定に加え、私たちの脳内表現である自己の身体を取り囲む「身体近傍空間」*2の定義が変わることからも実際の歩行時に似た特性を持つことが確認されました。
身体に接近してくるような音を聞いているとき、その音源が身体近傍にあるときには聴触覚間の感覚相互作用によって身体上の触覚検出課題に対する反応時間が短くなることが知られています(1)。さらに、歩行中にはこの反応時間がさらに減少することが報告されています。本技術では、実際に歩行することなく、足裏への振動刺激のみによって反応時間がさらに減少することを世界で初めて明らかにしました(2)。
本技術の効果を検証するため、次のような実験を実施しました。実験参加者の課題はペンダント型装置内のボイスコイルモータから胸部に提示された触覚振動刺激(閾上の強度で150 Hz の正弦波) を検出し、できるだけ早くボタンを押すことを求めました。その際、装着したヘッドフォンからホワイトノイズの音源が直線上に等速運動で接近することを模擬した音圧レベルが変化した音が提示されました。その接近音が身体近傍あるいは遠方にあるとき、胸部に振動刺激が提示されました。接近音が身体に近いときほど反応時間が小さくなると予想されます。スリッパの中敷きの踵の部分に組み込んだボイスコイルモータから、歩行音振動、歩行音振動を用いて左右の足へ非同期に歩行音振動を提示したり、歩行音振動を振幅一定の正弦波の振動に置き換えた音(純音) のいずれかの振動波形を提示して実験を行いました。
その結果、身体へ接近する音が身体に近いときほど胸部に提示された反応時間が小さくなることが確認されました。さらに、足への振動刺激によって受動的な状態で歩行感覚が生じたときに、歩行音振動条件でもっとも接近音が身体から遠いときでも反応時間が減少することを確認しました(図3)。このことは、胸部付近の身体近傍空間がより身体前方に拡張したことを示唆しています。さらに、歩行音振動条件では他の条件と比較して主観的に高い歩行感覚が得られていた(図4)ことから、歩行感覚の主観評定値の高さと身体近傍空間の前方への拡張との間に何らかの関係性があることが考えられます。
*2 身体近傍空間:私たちの身体を取り囲む空間では他者との物理的あるいは社会的な相互作用が直接行われます。この空間は身体近傍空間と呼ばれ、この空間内では身体から離れた空間と異なる神経生理機構や知覚的機能が存在することが知られています。

図3 足裏刺激ごとの触覚刺激に対する反応時間の変化

図4 足底刺激ごとの歩行感の主観評定値

より高い臨場感をめざして

2019年5月に開催されたNTTコミュニケーション科学基礎研究所 オープンハウス2019では、足底に着目した本技術に加え、モーションチェアと組み合わせて前庭感覚や固有感覚・触覚といった複数の感覚の同期提示によってさらに臨場感を高めた擬似的な歩行感を体験できる実演展示を行いました(図5)。私たちの先行研究では、歩行時に身体の揺動を与えたり、環境に応じて風や匂いを与えたりすることで、歩行体験や旅行体験を生み出せることを確認してきました(3)。今回の体験展示では、視覚情報に加えて、足裏への振動刺激と身体揺動という構成ながら、身体の揺動量やタイミングを工夫することによって、より高い歩行体験を生み出せることを確認しました。

図5 身体揺動と足底振動による擬似歩行感の生成

今後の展開

本成果である視聴覚情報に加えて、前庭感覚および固有感覚・触覚に対する受動的な刺激の同期提示によって、座位のままで全身の歩行感覚を再現提示する研究は、調査した限りでは私たちの共同研究グループの研究を除いて過去に例がありません。これまでもNTTコミュニケーション科学基礎研究所では人間の知覚特性を活用した研究成果によりさまざまな課題を乗り越えてきました(4)(5)(6)。今回実現した技術について、今後、4D映画館やVRアミューズメント施設などでのVR空間内の歩行体験を高めるための要素技術として、本技術の応用の検討を進めます。さらに、歩く動作だけでなく、走る、スキップするなど多様な歩行感覚の表現をめざすとともに、体験者の足踏みなどの運動入力と連携して歩行感覚を生み出すための方法論の確立をめざします。
人間の視覚・聴覚特性が映像装置や音響装置の設計において考慮されているように、触覚や力感覚をはじめとする五感情報通信が将来実現された場合も、人間の知覚側から情報提示装置の設計指針を規定することが重要になると考えられます。そのため、人間の感覚知覚機序の解明を進めながら、その人間の知覚特性を利用してさらなる五感インタフェースの研究へと転換できるような礎としての基礎研究を進めていきたいと考えています。

本研究の一部は、首都大学東京、豊橋技術科学大学との共同研究によるもので、平成30-32年度 文部科学省 科学研究費補助金 基盤研究(B) 18H03283 「擬似身体移動感の定量的評価法の開発とそれを用いた多様な移動感の生成手法の確立」(研究代表者:雨宮智浩)の助成を受けました。

■参考文献
(1) J.-P. Noel, P. Grivaz, P. Marmaroli, H. Lissek, O. Blanke, and A. Serino:“Full body action remapping of peripersonal space: the case of walking.、”Neuropsychologia, Vol.70, pp.375-384, 2015。
(2) 雨宮・池井・広田・北崎:“歩行を模擬した足底振動刺激による身体近傍空間の拡張、”日本バーチャルリアリティ学会論文誌、Vol.21, No. 4, pp. 627-633, 2016。
(3) 池井・広田・阿部・雨宮・佐藤・北崎:“身体的追体験の概念の提案と一部機能の試験実装―多感覚・運動情報提示による歩行・走行体験の共有、”日本バーチャルリアリティ学会論文誌、Vol.24, No. 2, pp.153-164、2019。
(4) 雨宮・安藤・何:“五感インタフェースによるノンバーバルコミュニケーション、”NTT技術ジャーナル、Vol. 19, No. 6, pp. 35-37, 2007。
(5) 雨宮・高椋・伊藤・五味:“指でつまむと引っ張られる感覚を生み出す装置「ぶるなび3」、”NTT技術ジャーナル、Vol.26, No.9, pp.23-26, 2014。
(6) 雨宮:“触覚・身体感覚の錯覚を活用した感覚運動情報の提示技術、”基礎心理学研究、Vol. 36, No.1, pp.135-141, 2017。

雨宮 智浩

五感を通じて体験する技術を先鋭化させるために、人間の特性を理解し、その知見を活かすことを心掛けて研究を続けています。今後も安心・安全・快適な社会に向け、知の体系化、そして革新的な技術の創出をめざします。

問い合わせ先

NTTコミュニケーション科学基礎研究所
企画担当
TEL 0774-93-5020
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