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特集

NTT Research: Upgrade Realityをめざした3つのオープンコラボレーション

NTT Research, Inc.のオープンラボ戦略

科学研究を進める方法はいくつかあります。企業は、それぞれ独自個別の体制で研究に取り組む傾向にあり、それに対して学術界は、よりオープンな共同体制で研究を進める傾向にあります。本稿では、この2つのアプローチを基礎研究と応用研究という観点から比較します。さらにNTT Research, Inc.が学術界に近い、オープンラボモデルを採用した理由を明らかにし、このモデルが実際にどのように今までの研究体制構築に効果を発揮しているか解説します。

小澤 英昭(おざわ ひであき)
NTT Research, Inc. COO/CTO

研究体制における独自モデルとオープンモデル

数10年前まで、企業は社内リソースのみで研究を進めるのが一般的でした。その典型的な例の1つがBell Telephone Labsです。American Telephone & Telegraph(AT&T)社とWestern Electric社のエンジニアリング部門を母体とし、現在はNokia Bell Labsとして知られるこの有名な研究機関は、電子トランジスタをはじめとする多くの画期的な技術を生み出してきました。数1000件の特許を含む、こうした成果は、Bell Labsの従業員による基礎物理学と応用物理学の研究が実を結んだものです。一方で小規模な1つの例として、Bell Labsの元エンジニア、Chester Carlson氏の研究成果があります。彼は自分の個人的な研究所で、後に「ゼログラフィ(Xerography)」と呼ばれるドライコピー技術を開発し、特許を取得しました。トランジスタとゼログラフィの技術は、20世紀に非常に大きな事業へと成長しました。
しかし、現在の米国企業の多くは、自動運転や、深層ニューラルネットワーキングに基づくAI(人工知能)など、基礎研究ではなく製品やサービスの応用研究に重点を置いています。基礎研究は企業ではなく大学の領域とみなされており、今日もその傾向は変わっていません。基礎研究は将来的にさまざまな製品やサービスとしてかたちになる可能性がありますが、有益な結果を達成するには非常に長い時間がかかり、また研究開発の過程では多くのリスクを想定する必要があり、必ずしも短期的なROI(Return of In­vest­­ment)に寄与できるとは限りません。
NTTは、日本の既存の研究所に加えて、「Upgrade Reality」*1という変革目標とともに、米国にNTT Research, Inc.を設立しました。NTTは、基礎研究に取り組むことで、将来的に全く新しいビジネス価値を生み出すことができると考えています。研究所を運営するうえでは、NTT Research, Inc.が適当と思われる研究者をすべて直接採用して基礎研究を進めるとすれば、理屈のうえでは研究で得られる新たな知識と発明権を独占することも可能です。しかし、私たちは別の道を選びました。今後の世代が直面する多くの課題が極めて複雑で密接に関係していると考えています。例えば、医療がめざす目標の1つは、患者を病気から回復させ、健康を容易に維持できるようにすることです。患者1人ひとりの体質はそれぞれ異なるため、将来は各人に適した正確な医療を提供することが望まれると考えられます。各患者に適した精密な医療をめざすのであれば、医学的知識だけでなく、生物学的な知識等も必要になり、また、創薬、センシング、ビッグデータ分析、治療材料などに関する知識も必要です。精密な医療を提供するには、こうした技術の精度を高める必要があります。
このため、できるだけ多くの知見、経験、英知を獲得し、精密な医療や、量子コンピュータなどの研究におけるリスクを管理するために、私たちはオープンラボ戦略が最適な手法だと判断しました。このオープンラボ戦略のアプローチは、短期的な製品開発を目標とする企業の研究よりも、学術研究や政府支援の研究に近いと考えられます。研究を進める大学は、オープンに科学的発見をめざし、その発見を研究者どうしで共有して互いに評することで、研究の進展を進めています。大学における研究の共通の目標は、新しい根本的な知識を見出していくことです。政府主導の研究には、より具体的な目標が設定されることがありますが、社会的な利益のための集団的な取り組みでもあります。複数の大学と協力してインターネットの開発を進めた米国国防省高等研究計画局(DARPA)は、その代表的な例です。
私たちは、「Upgrade Reality」のビジョンを示し、「心血管バイオデジタルツイン(CV BioDT)」*2や「光学技術に立脚した量子コンピューティングシステム(コヒーレントイジングマシン:CIM)」などの目標を設定してきました。私たちのビジョンと目標では、人間のレプリカをサイバー空間上に実現するバイオデジタルツインにより、個々の患者に即した精密な医療や新たな量子コンピューティングにより、より個別化できる創薬など、未来の社会問題の一部を解決することにつながる技術開発を実現したいと考えています。こうした高い目標を実現するためには、一企業の中の研究にとどまるのではなく、社外に目を向けて、世界中の他の研究機関との共同研究プロジェクトを主軸とするオープンラボ戦略を導入することが不可欠であると考えています。私たちは、新たな知識、成果、発見を、論文や共同研究者との共同特許として社会に公開しています。また、オープンラボのメンバに対して議論の場を提供することで、さまざまな視点を取り入れて、個々の研究者のアイデアをさらに広げる役割も担おうとしています。

*1 Upgrade Reality:現状を打破して、飛躍的な技術や価値を生み出そうというNTT Research, Inc.のスローガン。
*2 心血管バイオデジタルツイン:心血管を対象にしたサイバー空間上の、個々の人のレプリカ。

オープンソースのコミュニティとNTT Research, Inc.のオープンラボ

ある意味、私たちの研究の仕方は、オープンソースのソフトウェア開発手法に似ているようにも思えます。このオープンソースの開発では、まず個人や小さなコミュニティがビジョンと目標を持って、コーディングを行い世の中に提供をしていきます。この取り組みの価値に気付く開発者やユーザの数が増えれば、コミュニティは拡大し、コアソフトウェアの開発者だけでなく、アプリケーションの開発者等もチームに参加するようになります。コミュニティメンバが提案する知識やアイデアにより、コードは改善され、その価値もより高まります。
Physics and Informatics(PHI)Labのコヒーレントイジングマシン(CIM)研究グループは、似たような取り組みを進めてきました。2019年にわずか数名の社員からスタートしたCIMグループは、1年目に6つの大学や1つの国立研究機関、1つのスタートアップからなる共同研究パートナーを獲得し、光学ベースの量子コンピュータの理論およびハードウェア研究を進めました。2年目には、このコミュニティは12の大学、1つの国立研究機関、1つのスタートアップの14の組織との提携に拡大し、共同研究者を含む60人以上のメンバに成長しました。現在では、圧縮センシング、創薬、人工・生物学的脳科学など、CIMアプリケーションを研究している科学者も含めて、NTT Research, Inc.の社員の研究者や共同研究者を獲得し、新たなブレークスルーを達成しようとしています。
PHI Labと同様に、Medical and Informatics(MEI)Labでも、明確なビジョンを基にした研究開発を進めています。MEI Labのビジョンは前述の、サイバー空間で構築されたヒトの仮想レプリカであるバイオデジタルツインの実現です。現在、最初の取り組みとして、心血管系を中心にした、CV Bio Digital Twinの開発を進めています。また、MEI Labは、実際の人体から多くの生体情報を取り込むことができる埋め込み型の電極とリモートセンシングに関する研究にも取り組んでいます。PHI Labと同じく、MEI Labも研究をいくつかの要素に分解し、パートナーとともにコミュニティを形成して研究開発を進めています。主なパートナーとして、日本の国立循環器病研究センターやミュンヘン工科大学が参加しています。
暗号に関する主要な国際会議での論文の発表件数からみて、Cryptogra­phy and Information Security(CIS)Labは、暗号分野の世界的リーダーになったと考えられます。CIS Labは、多くの論文を発表していく過程で、PHI LabやMEI Labとは少し異なるアプローチをしています。CIS Labも複数の大学と共同研究契約を正式に締結していますが、契約を行ったパートナーだけでなく、他の大学や場合によっては企業の研究者たちとも、小さな研究のコミュニティをつくり共同研究を進めています。CIS Labの暗号研究チームの研究は学術的かつ理論的な要素が濃く、一方でブロックチェーンチームは応用研究の領域である、法律、プライバシ、現実的な問題への対処も求められる場合があります。暗号の理論研究は、対象のトピックに同じ関心を持つ研究者どうしが議論することで、議論が深まります。これは、オープンソースプロジェクトの起点となる小規模なコミュニティに似ているようにも思えます。オープンソースコミュニティのメンバはコードとドキュメントの作成を行いますが、CIS Labの研究者は学術論文を執筆します。
研究対象のトピックが基礎研究から製品開発のような応用的な研究に移行する過程では、3つのLabの現在の戦略は変更する必要があるかもしれません。しかし、基礎研究の場合、その成果は一種の公共資産としての性質も重要だと考えます。私たちのオープンラボ戦略では、特許などのかたちとして必要な知的財産はパートナーと確保するとともに、得られた知見は論文として発表していくことにより公共的な資産として提供することで、社会に対して貢献できる健全な手法だと考えています。

オープンラボの要件

オープンラボ戦略で成功を達成するには、いくつかの要件を満たす必要があります。資金調達はもちろん重要で、研究活動を加速できる要素の1つです。しかし、明確なビジョン、強力なリーダーシップ、効果的なチームがなければ、困難で未知な課題に立ち向かう基礎研究においては、資金を効率良く配分できない可能性が多々あります。私たちは基礎研究を進めるうえでは、ビジョンがもっとも重要ではないかと考えています。
「Upgrade Reality」のビジョンを実現するために、過去2年間で約40人の優秀な研究者が社員として集まりました。私たちは、現時点の「Reality」を改善し、現在と今後の世代が直面する社会問題や業界問題を解決したいと考えています。明確なビジョンがあれば、研究を正しい方向に導くことができると信じています。ただし、この道のりには回り道がないとは限りません。その多くは試行錯誤に類するものです。特に複数の研究機関が参加するような大規模な基礎研究では、思わぬ発見、思わぬ失敗を含むサプライズがつきものですから、研究を進めていくうえでは、ある程度の柔軟性も必要だと考えています。基礎研究では、未知の事実や全く新しい技術にチャレンジするためにリスクも伴います。大きなビジョンと目標に向けて、研究を分割して、さまざまなパートナーたちと部分部分で協力していくオープンラボ戦略は、こうしたリスクを管理し、成功の可能性を高めることができる1つの方法ではないかと考えています。

小澤 英昭

NTT Research, Inc.は、2019年の発足以来世界中の優れた知恵を活用して、最先端の基礎研究を行うために尽力しています。世界中の優れた知恵を活用する方法として、私たちが進めているパートナー戦略の考え方について理解いただければと思います。

問い合わせ先

NTT Research, Inc.
E-mail info@ntt-research.com