2026年9月号
特集2
デジタル・オルガノイドの可能性と未来 生体組織のデジタル化が実現する未来の医療と健康
- iPS細胞
- オルガノイド
- バイオデジタルツイン
私たちの健康状態を予測し、将来生じるリスクに効果的に対処することは、誰もが望むことでしょう。しかし、現在の医療技術では、1人ひとりの健康状態が将来どのように変化するかを高い精度で予測することは容易ではありません。私たちはこの課題に対する新たな試みの1つとして、細胞分化や組織形成のメカニズムを内包した生体組織のデジタルモデル「デジタル・オルガノイド」 の研究に取り組んでいます。本稿では、その実現を支える要素技術と、個別化医療や健康予測への可能性について紹介します。
小宮 賢士(こみや けんじ)
NTTコミュニケーション科学基礎研究所
はじめに
健康であるためには、私たちの体を構成する組織が適切に機能していることが必要です。さまざまな疾患の背後には、体の中の組織の状態があります。したがって、その時々の組織の状態を把握し、その将来的な変化を予測できれば、1人ひとりの健康状態をより正確に予測でき、その変化にも適切に対処できるようになると考えられます。しかし、体内の組織の働きについて、膨大な研究の蓄積があるとはいえ、未知のことも多いのが実情です。例えば、難病と呼ばれるような病態に対して、私たちの体の深部に存在する組織の観察や詳細な解析、薬剤への応答などを個別に調べることは必ずしも簡単ではありません。
私たちはこの課題の解決に向けて、組織の特徴を再現した人工組織(オルガノイド*1)を活用し、その情報を基に人それぞれの組織を計算機上で再現する「デジタル・オルガノイド*2」の研究に取り組んでいます。これにより、検査や観察だけではとらえることが難しい組織の状態やその変化を理解し、将来的には健康状態や疾患リスクの予測につなげることをめざしています。
本稿では、まずデジタル・オルガノイドの全体像を紹介した後、その実現を支える細胞分化および組織形成の分析・モデリング技術について説明します。さらに、それらを基盤とした組織機能および臓器機能のシミュレーションへの展開について紹介します。
*1 オルガノイド:幹細胞から作製される三次元の細胞組織。生体内の組織や臓器の構造や機能の一部を再現します。
*2 デジタル・オルガノイド:オルガノイドの形成過程や構造、機能に関する情報を統合し、デジタル空間上で再現した計算モデル。
デジタル・オルガノイドとは何か
近年、人それぞれの組織を人工的につくり出す試みとして注目されているのが、オルガノイドです。オルガノイドとは、幹細胞から作製される三次元の細胞組織であり、生体内の組織の特徴を部分的に再現したものです。特に2006年に山中伸弥らによって開発されたiPS細胞(人工多能性幹細胞)*3の登場により、血液などの身近な細胞からさまざまな種類の細胞を作製できるようになりました。これによって、さまざまな組織のオルガノイドをつくり出す研究が大きく加速しています。
私たちは、オルガノイドから得られる情報を活用して、人それぞれの組織の状態や機能をデジタル空間上で再現するデジタル・オルガノイドを提唱しています(図1)。デジタル・オルガノイドとは、オルガノイドの機能を計算機上でシミュレートするデジタルモデルです。その際、私たちは、組織がどのように形成され、どのような構造を持ち、どのような機能を発揮するのかという仕組みを含めて表現することが重要と考えています。細胞分化や組織形成といった組織を構成する要素を統合的にモデル化することで、組織の振る舞いや機能を包括的に理解・予測できると考えられるからです。
オルガノイドは、生体組織の一部を物理的に再現したものととらえることができます。オルガノイドのモデルであるデジタル・オルガノイドは、このオルガノイドを現実世界とデジタル空間をつなぐ基盤として活用するものです。オルガノイドを元に物理世界で臓器をつくることは、現実世界の物理的な制約などから今のところ困難ですが、デジタル・オルガノイドでは、組織の理解から臓器機能のシミュレーションへと発展させることで、より大きなスケールでの生体機能の理解や健康予測につなげられる可能性もあると考えられます。
*3 iPS細胞:体の細胞に特定の遺伝子を導入することで作製される幹細胞。さまざまな種類の細胞へ分化できる能力を持ちます。

細胞分化の理解
細胞が集まって組織は形成されます。どのように組織が形成され機能を発揮するかは、組織の機能を理解するための基本的な情報です。組織の形成過程では、幹細胞が増殖しながらさまざまな種類の細胞へと分化していくことが知られています。この分化という現象は、細胞の中にある遺伝子によって制御されています。遺伝子は核酸という物質の配列から構成されており、その一部が利用されることでタンパク質などの生体分子が合成されます。細胞の種類や状態の違いは、どの遺伝子がどの程度利用されているかによって決まります。
どの遺伝子がどの程度利用されたかを表す指標が「遺伝子発現量*4」です。近年では、個々の細胞ごとに遺伝子発現量を計測できる技術が発展し、数万から数十万個の細胞に対して数万種類の遺伝子発現量を取得できるようになりました。このようなデータを解析することで、ある細胞が現在どのような状態にあるのか、さらにどのような経路をたどって別の細胞へ分化していくのかを推定することが可能になります。
こうした分化過程の理解は、生命科学や医療において極めて重要です。例えば、iPS細胞から心筋細胞や神経細胞などの目的の細胞を効率的に作製するためには、細胞がどのような過程を経て分化するのかを理解する必要があります。また、がんやさまざまな疾患では、細胞が本来とは異なる状態へ変化することが知られており、その過程を明らかにすることは病気の原因解明や新しい治療法の開発にもつながります。そのため、細胞の分化構造*5を正確に推定することは、再生医療や創薬の基盤となる重要な課題です。
しかし、この問題は容易ではありません。細胞ごとに数万種類の遺伝子発現量が計測されるため、データは極めて高次元かつ複雑になります。そのため一般には、高次元の遺伝子発現データからより扱いやすい低次元(例えば2次元)の表現を生成し、その空間上で細胞どうしの位置関係を解析することで、細胞分化の経路や構造に関する仮説を構築します(図2)。しかし、得られた分化構造は解析手法やパラメータの設定によって変化することもあり、その仮説がどの程度信頼できるのかを客観的に評価することは難しい課題でした。
私たちはこの課題に対し、統計的仮説検定に基づいて信頼性の高い分化構造を発見する技術である「分化チェルノフ限界検定法(CBDT: Chernoff Bound Differentiation Testing)*6」を開発しました(1)。この技術により、データから得られた分化構造仮説の統計的な妥当性を評価することが可能になります。現在は、この技術を活用して、研究者が細胞分化構造の仮説を対話的に創出・編集・検証できるシステムの実現をめざしています。
*4 遺伝子発現量:細胞内で各遺伝子がどの程度利用され、タンパク質などの生体分子が作られたかを表す指標。
*5 分化構造:幹細胞からさまざまな種類の細胞へ分化する過程を表した構造。木構造やネットワーク構造として表現されることが多々あります。
*6 分化チェルノフ限界検定法:チェルノフ限界と呼ばれる統計理論に基づき、観測された細胞分化構造が偶然によるものではないことを評価する技術。

組織形成の再現
iPS細胞と分化制御技術の発展により、近年ではさまざまな種類の細胞を人工的に作製できるようになってきました。しかし、生体組織の機能を再現するためには、細胞をつくるだけでは十分ではありません。作製した細胞をどのように配置し、協調的に働かせるかが重要な課題となります。しかし、この課題については未解明な点も多いのが現状です。
生体組織の機能は、多様な種類の細胞が相互に作用しながら協調して働くことで実現されています。近年の研究により、個々の細胞とそれらがつくる構造、例えば空間的な配置が、機能を発揮するうえで極めて重要であることが分かってきました。例えば肝臓では、肝小葉と呼ばれる静脈を中心とした六角柱状の構造が約50万個存在し、その内部では肝細胞をはじめとするさまざまな細胞が規則的に配置されています。この構造が乱れると、肝臓の重要な機能である解毒機能などが低下することが知られています。
このような事実は、生体組織やオルガノイドの機能を実現するためには、細胞の種類だけでなく、その配置も重要な役割を果たすことを示しています。驚くべきことに、生体内ではこのような複雑で大規模な構造が、細胞どうしの相互作用によって自発的に形成されます。近年では遺伝子操作技術の発達により、細胞どうしの接着性などを制御することで、多様な細胞配置を設計できることも分かってきました。
しかし、目的とする細胞配置を実現する条件を見つけることは容易ではありません。通常は、細胞どうしの相互作用の条件を変えながら実験やシミュレーションを多数回繰り返し、その結果を比較検討する必要があります(図3)。この試行錯誤には多くの時間とコストを要し、オルガノイド研究を進めるうえで大きな障壁となっています。
私たちはこの課題に対し、観測された細胞配置から、その背後にある細胞間相互作用*7の条件を逆推定する「細胞間作用逆推定法(TI2PS: Topology-Informed Inverse Parameter Surrogate)」を開発しました(2)(3)。この方法では、細胞配置の情報を、データ間のつながりを表現する位相(トポロジー)*8という数学的表現へ変換し、その特徴からシミュレーションモデルのパラメータを直接推定します。これにより、従来は多数の試行錯誤を必要としていた相互作用条件の探索を大幅に効率化することが可能になりました。本技術は、組織やオルガノイドにおいて観測された細胞配置から、その形成メカニズムを理解するための新たな手段となることが期待されます。
*7 細胞間相互作用:細胞どうしが接着や反発、シグナル伝達などを通じて互いに影響を及ぼし合う働き。
*8 位相:図形やデータがどのようにつながり合っているかという構造的特徴を扱う数学の分野。

デジタル・オルガノイドと臓器のシミュレーション
近年、さまざまな組織を対象として、オルガノイドをはじめとする人工組織を作製する研究が大きく進展しています。現時点では、これらの人工組織は機能や構造の面で実際の生体組織を完全に再現できているわけではありません。しかし、疾患の発症メカニズムの解明や新しい治療法の評価・検証に利用する試みが始まっており、生命科学や医療の発展に向けた重要な基盤技術として期待されています。
その1つとして、iPS細胞由来の人工心筋組織(EHT: Engineered Heart Tissue*9)が近年注目を集めています。私たちは、人工組織やそのデジタルモデルに関する世界最先端の研究機関である大阪大学ヒューマン・メタバース疾患研究拠点との共同研究において、EHTの精密計測に取り組んでいます。EHTは柱状の支持構造の間に心筋組織を形成したものであり、電気刺激を与えることで拍動・収縮します(図4)。その運動を高精度な画像計測技術によって観測することで、支持構造の変形量から収縮力を定量的に評価することができます(4)。これまでに、遺伝性心筋症の患者由来iPS細胞から作製したEHTの解析を通じて、疾患の発症メカニズムに関する新たな知見が得られています(5)。
さらに、上記の共同研究では、デジタル・オルガノイドを基盤として、臓器レベルの機能をシミュレートする技術の開発にも取り組んでいます。具体的には、EHTの形成過程や構造、収縮特性に関する情報を用いて、実際の心臓がどのように変形し、血液を送り出すのかを予測するモデルの構築を進めています(図5)。これにより、人工組織から得られる知見を実際の臓器機能へと結び付け、人工組織と生体臓器との関係をより深く理解できるようになると期待しています。将来的には、患者自身の細胞から作製したオルガノイドとそのデジタルモデルを組み合わせることで、疾患の進行予測や治療効果予測、さらには1人ひとりに最適化された医療の実現につながることをめざしています。
以上のように、私たちは、デジタル・オルガノイドをリアルとデジタルとをつなぐ軸として活用することで、遺伝子、細胞、組織、臓器やその連関など、さまざまなスケールで生体の機能をモデル化しようとしています。これにより、日常の健康のケアや難病の克服にも貢献する「バイオデジタルツイン」の実現をめざします。
*9 EHT:iPS細胞などから作製される人工心筋組織。拍動や収縮など心筋組織の機能を再現し、疾患研究や創薬研究に利用されます。


■参考文献
(1)M. Nakano, H. Sakuma, R. Nishikimi, K. Komiya, T. Iwata, and K. Kashino: “Hyperbolic PHATE: Visualizing Continuous Hierarchy of Latent Differentiation Structures,” Proc. of IEEE International Conference on Acoustics, Speech, and Signal Processing (ICASSP), 2025.
(2)A. K. Jin, K. Komiya, R. Nishikimi, and K. Kashino: “Topology Informed Surrogate Modeling for Parameter Optimization in Multicellular Models,” Proc. of IEEE EMBS International Conference on Biomedical and Health Informatics (BHI), 2025.
(3)K. Komiya, A. K. Jin, R. Nishikimi, and K. Kashino: “Learning Pairwise Potential via Differentiable Recurrent Dynamics,” in NeurIPS Workshop on Machine Learning and Physical Science, 2025.
(4)M. Tsuchida, M. Hasegawa, K. Miki, S. Miyagawa, and K. Kashino: “Mechanical Performance of Engineered Heart Tissue Can Be Measured with POC-Based Video Analysis,” Proc. of The 46th Annual International Conference of the IEEE Engineering in Medicine and Biology Society (EMBC), 2024.
(5)T. Nagashima, K. Miki, M. Tsuchida, J. Whitehouse, I. Takei-Sasozaki, Y. Higashiyama, H. Ishida, K. Kashino, and S. Miyagawa: “Pediatric dilated cardiomyopathy caused by TNNT2-R151W mutation: Modeling and rescue in patient-derived induced pluripotent stem cells and engineered heart tissue,” Bioengineering & Translational Medicine, e70108, 2026.

小宮 賢士

近年のiPS細胞やAIの技術の発展が今までにない医療や未来の健康のかたちを今まさに変えようとしています。シミュレーションと機械学習を駆使し、デジタル・オルガノイドを未来の医療の基盤として活用するための技術研究を進めていきます。