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特集1

バイオ・ソフトマテリアル研究の最前線II

オンチップ生体モデルを生み出す材料とセンシング技術

生体にやさしいソフトマテリアルのユニークな加工技術を創製し、バイオ材料と組み合わせることで、研究の幅とその応用可能性が飛躍的に高まりました。NTTが掲げる医療健康ビジョンの下、医療・医学への貢献に向けた新しい基盤技術が生み出されています。本稿では、NTT物性科学基礎研究所でのバイオ・ソフトマテリアル研究の最新の展開について紹介します。

山口 真澄(やまぐち ますみ)†1/田中 あや(たなか あや)†1
熊倉 一英(くまくら かずひで)†2
NTT物性科学基礎研究所†1
NTT物性科学基礎研究所 所長†2

NTT物性科学基礎研究所でのバイオ・ソフトマテリアル研究

NTT物性科学基礎研究所(物性研)では、1980年代から脳との情報通信をターゲットとしたバイオインタフェースの研究が進められてきました。近年は半導体などの微細加工技術と組み合わせたバイオセンサなどのナノバイオデバイスや、高速走査プローブ型顕微鏡による生体分子のライブイメージングなど先端の観察技術を用いた研究が展開されています(1)。NTTでは2020年11月に医療健康ビジョン「バイオデジタルツインの実現」を発表し、データを活用した医療健康支援技術の構築に向けて動き出しました(2)。バイオデジタルツインは、疾病の予測やシミュレーションを行うために、バーチャル空間上に身体や心理の写像をつくり出す技術です。この取り組みの中では、単なるデータサイエンスだけでなく、これまで培ってきたNTTでのバイオ・ソフトマテリアルの研究を取り込むことで、人体内での診断や治療を行うバイオミクロロボットや、人体や臓器の機能をチップ上に再現する臓器チップなどのデバイスの基礎研究にも着手し、医学や情報科学の研究者だけにとどまらない、デバイス、バイオサイエンス、マテリアルサイエンスなど幅広い領域の技術者、研究者がかかわった取り組みになっています。この動きは、これまで物性研でバイオ・ソフトマテリアルの基礎研究に従事してきた者にとっても、脳との通信という狭いスコープではなく、広く生体の情報を獲得するデバイス技術や、生体機能を人工的に模倣する技術に至るまで視野を広げることになりました。
その端緒となった研究の1つとしてhitoe®*1が挙げられます。これは、もともとは物性研にて行っていたマウスの脳の神経活動を検出する実験において、脳組織を傷つけにくい電極としてつくった手術用の絹糸を導電性高分子PEDOT:PSSでコーティングする技術に端を発します。この技術を基に、肌から人の発する心電や筋電などの電位を検出する親水性の電極素材として東レ株式会社との共同開発が進み、2014年に心拍の測れるスポーツ用ウェアとして市販されました(3)。さらに最近では医療機器としてのサービスが展開されており、人の医療・健康、Well−beingを実現するために生体データを計測する有力なツールとして期待されています(4)(図1)。
最近の物性研でのバイオ・ソフトマテリアル研究では、従来の技術や研究テーマの延長にとどまらず、独創的な技術やテーマが生まれて育ってきています。本特集では、物性研で進めているそれらの研究の中から、チップ上における細胞や生体機能の再現や、生体の動きを模倣するオンチップ生体モデルに関連した研究成果と、最先端のセンシング技術とのコラボレーションが生み出した成果を取り上げています。

*1 hitoe®:東レ株式会社とNTTが共同で開発した機能繊維素材。導電性高分子PEDOT:PSSをナノファイバにコーティングした導電性布帛。金属製の繊維を使っておらず、汗などの水分との親和性が高いためソフトな肌触りと肌への高い密着性があります。スポーツ時などの汗をかくシーンにおいてもノイズが少ない生体信号測定が可能であるなどの特長を持っています。

オンチップ生体モデル

材料加工の技術は、精密機械や電子機器の発展とともに高度化、微細化してきており、NTTの研究所においても電気・光通信デバイスの研究開発に合わせて、ガラスや半導体の微細加工技術が進化してきました。従来のバイオ・ソフトマテリアル研究においては、例えばシリコン半導体の微細加工など、既存の加工技術をうまく活用してバイオと融合した研究につなげるという視点が支配的でした。しかし、それらのいわゆるハードでドライな材料の先端加工技術との組合せはバイオ・ソフトマテリアル研究の可能性を広げる一部分でしかありません。
物性研では、前回の本誌特集『バイオ・ソフトマテリアル研究の最前線(1)で紹介した2016年ごろから、単なる既存の加工技術ではなく、ソフトマテリアルを中心とした生体にやさしい材料(生体内に入れても大丈夫、培養細胞が育つ、細胞培養の足場となるような材料)の独自の加工技術の創出に取り組んできました。その走りとなったのが、シルクゲル薄膜2層系の自己立体化技術です(5)。この研究から発展して、本特集で紹介するグラフェン・パリレン2層系を用いたオンチップ培養脳モデルの研究へと進展しています(6)。また、それに引き続き、ガラス基板上のハイドロゲル薄膜を用いた座屈剥離の制御技術が確立されました(7)。これら2つの加工技術の原理は特徴的で、半導体の基板成長やプロセスではむしろ嫌われる、異物質界面での物性の違いから生じる応力を、逆に制御することで自発的にロールを形成させたり、流路に加工したりしています。これらの独自の加工技術により生体信号を検出するための立体電極の作製や薄膜からのバリエーションに富んだ流路形成などの基本技術が生み出されています。さらに、2023年に入ってからは光照射によって生体の動きを模倣するような動的制御技術も生まれています。これらのデバイスはどれも生体適合性に優れた材料からできていますので、それらのデバイス上で細胞を培養して立体的に形成された細胞組織の動きや生体信号を観察するなど、この数年のうちに飛躍的に研究が進展しています(図2)。
詳しくは本特集のそれぞれの記事にて紹介しています。『立体変形電極を用いたオンチップ培養脳モデル』の記事で紹介するグラフェン・パリレンの自己組み立て技術(6)では、犠牲層を使って自発的に立体化する技術により、細胞に大きな負荷を与えることなく包み込むことができ、まとまった数の細胞塊の培養や、それらどうしによるチップ上での神経ネットワークの形成が実現されているほか、このグラフェンを電極としてそれぞれの細胞塊からの生体信号を取得することに成功しています。このグラフェンの自己組み立て技術では、グラフェンと基材の厚さの制御によってその大きさや立体形状を制御することも可能です。
オンチップ生体モデルの構築に向けたハイドロゲル運動素子の創製』の記事で紹介するハイドロゲルの座屈剥離制御技術(7)では、ガラス基板上のハイドロゲルの接着パターンや硬さを制御することによりさまざまなバリエーションを持った流路構造が形成され、また、ハイドロゲルの合成を工夫することにより光熱によって生体を模倣した動きを再現し、チップ上での血管や腸管動作の模倣を実現しています。このデバイス上で細胞を培養することでデバイスの動きや、チップ上の流れと培養細胞を組み合わせた研究へと新たな展開が期待されています。
人工細胞膜構築のための脂質分子機能評価』の記事では、従来から取り組んでいる、人工細胞膜の研究の最近の進展を紹介しています(8)。人工細胞膜はシリコン半導体基板上の微細加工井戸を細胞膜の基質である脂質二分子膜で覆うことにより、細胞膜面内や表面に存在する膜タンパク質の機能をチップ上に再現する技術です。人工細胞膜デバイスの研究では、脂質の構成要素の違いにより生じる相分離膜を基板上で制御する方法や昆虫細胞由来ウイルスによる組み換え膜タンパク質導入の検討を行っています。また、基板と脂質膜との隙間を通したイオンの移動に伴う電気的なリークの抑制方法も技術的に進展して電気生理計測のためのシール技術として確立間近となっています。

精密医療への貢献

基板の上で生体内の環境を再現して、培養細胞によってチップ上に臓器機能などを発現する技術は臓器チップと呼ばれ、創薬研究をはじめとして個別化医療や疾患モデリングなどに役立つ技術として注目を集めています(図3)。臓器チップはシンプルなものではすでに市販されているデバイスもありますが、そういった単純なものにとどまらず、より複雑な生体システムを模倣することで、個別の臓器機能を再現するだけでなく、将来は動物実験を代替するデバイスとして期待されています。ただし、そのためには、例えば、立体的な臓器の形状であったり、生体が持つ動きであったり、あるいはそれらをつなぐ血液や体液の輸送機構、神経などの情報伝達機構などまだ実現されていないさまざまな要素が必要となります。
臓器チップは一部がすでに市販されていることからも分かるように、すでに医薬の研究に役立てられている技術です。実用に用いるデバイスの技術開発においては、その目的を明確にすることが極めて重要です。すなわち、どのような目的でどのような計測を行いたいのかという明確な用途がないと、設計指針がふらつき、やがては使えないデバイスが仕上がります。また、何かの用途のためのデバイスをつくることと研究をリンクさせると、研究の指向として、その用途に必要な既存の技術の組合せやその性能強化に重心が移ってしまうことに気を付けなければなりません。物性研でのオンチップ生体モデルの研究の特徴は、そのような実用デバイスの技術開発ではなく、より広い意味での生体の模倣、生体機能の再現というイメージの下、特定の疾患や医薬研究への活用という視点を離れて、生体にやさしい材料の合成や加工によって、構造化、動き、センシングなどの新しい可能性を見出し、新機能を創生するというボトムアップの立場で研究テーマを切り拓いているところです。これにより、従来の技術の延長では実現できないような複雑な生体機能・生体模倣機能をチップ上に再現する技術へと発展しています。

高感度センシング技術とのコラボレーション

物性研では、より高感度なバイオセンシングをめざして、量子技術やナノメカニクス技術との組合せにも挑戦しています(図4)。その1つとして、本特集では超伝導量子ビットによる神経細胞中の鉄イオンのセンシングについて紹介しています(9)。超伝導量子ビットは量子コンピュータの演算素子という表の顔だけでなく、それ自体が超低温環境で動作する非常に感度の高い磁気センサでもあります。超伝導磁束量子ビットセンサは20個の電子スピン(鉄イオン)を検出可能な感度を持ち、そのサイズ(典型的には10から数マイクロメートル角程度)で決まる空間分解能を持ちます。ここでは、基板に貼り付けた神経細胞の磁化の測定を紹介していますが、この技術がさらに進化すれば将来は細胞単位での空間分解能で微量金属元素が分析可能になると期待されます。また、本特集では紹介していませんが、微小機械振動子センサにおいて液体の特性や液中の粒子を超高感度に検出する技術の研究が進んでいます(10)。これまで、金属や半導体のようなドライでハードな物質をターゲットとしてきた高感度センサ技術が、今後はウェットでソフトなバイオ領域にも応用が広がっていくと考えられます。

出会いを大切に─研究パートナー

研究テーマはボトムアップであっても、自分たちの知らなかった研究テーマの課題と結び付くことで、研究成果の活用の方向性が見えてきたり、応用が拓けたりすることがあります。実際に、本特集で紹介するハイドロゲル座屈剥離流路技術も、NTT研究所が毎年開催しているR&Dフォーラムに腫瘍を研究されている医学部の先生が来訪された際に、実験で直面されていた課題を解決できるのではないかとお声掛けをいただき、これまでの汎用的なデバイスチップでは実現できなかった実験に活用されて、医学の研究にも貢献することができました。ボトムアップの基礎研究は、実際に役立つこととは無関係ということではなく、その指向が具体的な実用デバイスに向けた開発ではないというだけです。ここで紹介したオンチップ生体モデルやセンシングの技術についても、すでにいろいろなところに活用できるものと考えています。表面に見えているニーズを追いかけて研究の本質を見失わないことが大切ですが、新しい出会いによる進歩を逃さないように研究に取り組んでいきたいと思います。
そのような研究の有機的な結合をめざして、物性研でのバイオ・ソフトマテリアル研究ではバイオメディカル情報科学研究センタを中心として内外との共同開発や共同研究を推進しています。主役登場にて紹介しているようにNTT Researchの生体情報処理研究所には物性研にてシルクゲル薄膜やグラフェン・パリレンの2層系自己立体化技術を手掛けた手島哲彦主任研究員が在籍して、ミュンヘン工科大学を拠点に研究を進めています(11)。また国内では、大阪大学を拠点としたWPI PRIMe*2にも参画しています。これからも、国内外での新しい出会いを大切にして、バイオ・ソフトマテリアルのフロンティアを切り拓く研究を進めていきたいと考えています。

*2 WPI PRIMe:文部科学省の世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)に採択されている大阪大学ヒューマン・メタバース疾患研究拠点。

■参考文献
(1) 特集:“バイオ・ソフトマテリアル研究の最前線,”NTT技術ジャーナル,Vol.28,No.6,pp.10-40, 2016.
(2) 特集:“NTT医療健康ビジョン──バイオデジタルツインの実現に向けて,”NTT技術ジャーナル,Vol.33,No.5,pp.10-37, 2021.
(3) 手島・塚田・中島:“生体信号計測に向けた導電性複合材料,”NTT技術ジャーナル,Vol.28,No.6,pp.36-39,2016.
(4) 特集:“NTTテクノクロスによるヘルスケア分野の事業拡大とメディカル分野への本格参入,”月刊ビジネスコミュニケーション,Vol.60,No.8,pp.57-64, 2023.
(5) T.Teshima, H.Nakashima, Y.Ueno, S.Sasaki, C.S. Henderson, and S.Tsukada:“Cell Encapsulation and 3D Self-assembly Using Multi-layered Polymeric Thin Films,”NTT Technical Review,Vol. 16, No. 8, pp. 53-61, August 2018.
(6) 酒井・後藤・手島:“立体変形電極を用いたオンチップ培養脳モデル,”NTT技術ジャーナル,Vol.36,No.3,pp.19-23,2024.
(7) 高橋:“オンチップ生体モデルの構築に向けたハイドロゲル運動素子の創製,”NTT技術ジャーナル,Vol.36,No.3,pp.14-18, 2024.
(8) 大嶋・樫村:“人工細胞膜の構築のための脂質分子機能評価,”NTT技術ジャーナル,Vol.36,No.3,pp.24-27,2024.
(9) 樋田・酒井・手島・角柳・Imran Mahboob・齊藤:“超伝導磁束量子ビットによる神経細胞中の鉄イオン検出,”NTT技術ジャーナル,Vol.36,No.3,pp.28-31,2024.
(10) https://group.ntt/jp/newsrelease/2022/11/03/221103a.html
(11) 手島・Joe Alexander・Bernhard Wolfrum:“バイオデジタルツインの創出に向けた生体インタフェースの開発,”NTT技術ジャーナル,Vol.35,No.1,pp.32-37,2023.

(左から)山口 真澄/田中 あや/熊倉 一英

発想と情熱を大切に、思わぬ出会いを逃さないよう、着実にバイオ・ソフトマテリアルの研究を進めていきたいと思います。

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NTT物性科学基礎研究所
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