2026年8月号
特集1
From Research to Reality──NTT Research 2.0で始動したビジネスインキュベーター「Scale Academy」と第1号プロジェクト「SaltGrain」
- スタートアップビジネスインキュベーター
- 属性ベース暗号(ABE)
- きめ細かなアクセス制御(Fine-Grained Access Control)
基礎研究が生んだ知見は、社会に実装されて初めてInnovationとなります。NTT Research,Inc.は創設7年目を機に、学術的な発明を市場価値へと転換するインキュベーター「Scale Academy」を立ち上げました。本稿では、その背景にある研究機関の新たな使命と、第1号プロジェクト「SaltGrain」が切り拓くデータセキュリティの可能性について紹介します。
Bennett Indart/Fang Wu
細井 正善(ほそい まさよし)
NTT Research,Inc. Scale Academy
研究の力を社会へ届ける──NTT Research 2.0への転換
優れた基礎研究は、既存の社会課題の解決に直接貢献するだけでなく、まだ誰も認識していない原理や知見を明らかにし、将来の技術革新や新たな価値創造の源泉となります。
しかし、どれほど先駆的なInvention(発明)であっても、社会に実装され人々の手に届いて初めてInnovation(革新)となります。研究成果を確実に社会へ届けるこの橋渡しの仕組みこそが、NTT Research,Inc.(NTT Research)が今まさに構築しようとしているものです。
2026年4月、NTT Researchはシリコンバレーで開催した年次イベント「Upgrade 2026」において、スタートアップビジネスインキュベーター「Scale Academy」の設立と、その第1号プロジェクト「SaltGrain」を発表しました(図1、2)。本稿では、Scale Academyのコンセプトと運営体制、およびSaltGrainの技術的特長と社会的意義について紹介します。
NTT Researchはこれまで基礎研究に重点を置いた研究機関として、光・量子コンピュータ、暗号理論、医療情報処理、AI(人工知能)の各分野において、世界のパートナーとともに最先端の研究を推進し、着実に成果を積み上げてきました。その中で暗号分野では、世界最高峰の暗号国際会議であるCryptoやEurocryptにおいて全採択論文の約15%を占めるなど、他の研究機関・大学を凌駕する実績を誇っています。
その一方で、生まれた技術を事業へつなげるという課題は常に意識されてきました。こうした背景から、NTT Researchは創設7年目を機に「NTT Research 2.0」を宣言し、基礎研究のさらなる強化と並行して、有望な技術資産を確実に市場へ届けることを正式な使命として加えました。「Research to Reality」の歩みにおける次のステップとして、Scale Academyは NTT Researchが蓄積してきた Inventionを選定・評価・推進し、より多くの人々や社会に届くInnovationへと昇華させるエンジンとして立ち上げられました。


Scale Academy──研究とビジネスの橋を架ける
■ミッションと体制
Scale Academyのミッションは「強いビジネスポテンシャルを持つ技術を特定し、事業の初期成功フェーズへと導くこと」です。NTTグループ内で生まれた科学的発見や独自コンセプトを商業化・スケール化するための専門的なビジネスインキュベーターとして位置付けられています。
まずは NTT Research自身が保有する技術資産を対象に取り組みを開始し、将来的にはNTT R&DやNTTグループ各社のラボとの連携へと範囲を広げていく構想を持っています。責任者はBennett Indart(SVP of Business Innovation、NTT Research)であり、ビジネス開発・アプリケーション開発・投資判断・事業化を担う専任チームを編成して取り組みを進めています。
■技術を市場価値へ転換するプロセス
Scale Academyは技術の発掘(Discovery)から育成(Incubate)、商業化(Commercialize)、スケール(Scale)という段階的プロセスで技術を市場へと導きます。各段階にはマイルストーンとファンディングゲートを設け、規律ある意思決定を担保する設計となっています。
重要なのは、このプロセスが「優れた技術が必ずしも市場を生むわけではない」という先端的な技術研究を基にした事業化の本質を踏まえた設計になっている点です。要素技術はその組み合わせ方によって適用可能なユースケースが大きく広がる一方、可能性が広がりすぎることで注力すべき領域がみえにくくなる側面もあります。そのため、要素技術を具体的な機能へと落とし込み、真に価値あるユースケースを丁寧に探索・検証するプロセスが不可欠です。InventionがInnovationへと至る成功確率を高めるこうした知見を、Scale Academyは組織として蓄積していきます。
■シリコンバレーを起点としたオープンな事業展開
NTT Researchがシリコンバレーに立地するという環境的優位を、Scale Academyは最大限に活かします。VC(ベンチャーキャピタル)との早期連携を前提とした資本設計、グローバルマーケットエコシステムへの即時リーチ、将来的なスピンアウト(独立会社化)も視野に入れた柔軟な出口戦略──これらはすべて、シリコンバレーというエコシステムの中でこそ自然に実現できるアプローチです。
有望な技術に対して外部資本や外部パートナーとの協業も積極的に取り込みながら、NTTグループの研究資産をより広く社会へ届けていきます。こうした開かれた姿勢こそが、Scale Academyがめざす新しい研究機関の役割を体現しています。
第1号プロジェクト「SaltGrain」──暗号理論の発明がデータセキュリティを変える
■ABEの誕生と進化──基礎研究が創造したInventionの軌跡
SaltGrainの中核技術は、属性ベース暗号(ABE:Attribute-Based Encryption)です。ABEは2004年にUCLAのAmit Sahai博士と、現在はNTT ResearchのCIS(Cryptography & Information Security)LaboratoriesのDirectorを務めるBrent Waters博士が共同提唱した暗号方式であり、2020年には国際暗号学会(IACR:International Association for Cryptologic Research)からTest of Time Awardを受賞しています(1)。
発表当時は1つの暗号理論に過ぎませんでしたが、その後20年にわたる研究深化の中でデジタルデータの爆発的増大・クラウドシフト・AIの台頭という技術環境の大きな変化と交差し、今まさにその真価を発揮する時を迎えています。基礎研究が将来のトレンドを先んじて創造し得ることを示す、象徴的な事例です。ABEは暗号文とアクセスポリシーを一体化する方式であり、復号の可否をユーザの「属性(役職・所属・許可レベル等)」と「ポリシー条件」の一致によって制御します。従来の公開鍵暗号が「1対1」の鍵管理を前提とするのに対して、ABEは「1対多・条件付き」の柔軟なアクセス制御を暗号レベルで実現する点に根本的な違いがあります。複数年にわたり、研究者はポスト量子暗号を含むABEの性能と機能の充実化を進めてきました。その結果、技術の成熟度は着実に高められ、Scale Academyの第1号プロジェクトとして事業化の軌道に乗せました。
■「データそのもの」を守る──SaltGrainの技術的特長
従来のセキュリティアーキテクチャは「境界防御」を基本としてきました。しかし、データが組織の境界の外に出た瞬間に保護が保証されなくなるという根本的な脆弱性を抱えており、クラウド・マルチベンダ環境やAIを活用した業務フローが常態化した今日、この限界はより深刻さを増しています。
従来のアクセス制御手法であるRBAC(ロールベースアクセス制御)やABAC(属性ベースアクセス制御)は、クラウド上でのきめ細かなアクセス管理を可能にしますが、データ自体は暗号化されていないため、システムへ侵入された場合にはデータがそのまま漏洩するリスクがあります。一方、共通鍵暗号によるデータ暗号化だけでは、鍵を保有するすべての者がデータを復号できてしまうため、データがクラウド外へ持ち出された場合の制御が困難になることがあります。
SaltGrainはABEの仕組みによってこの両方の課題を同時に解決します。データを暗号化しながら、復号の可否をユーザの属性とポリシー条件の一致によって制御するため、正当な権限を持たない者はたとえデータを入手しても復号することができません。これにより、データ層レベルのきめ細かなアクセス制御(Fine-Grained Access Control)と、データそのものの暗号化保護を一体的に実現します。テキスト・画像・動画等の形式を問わず、ファイル内の特定コンテンツ単位での選択的保護にも対応します。さらにポスト量子暗号(PQC:Post-Quantum Cryptography)への対応も実装済みであり、量子コンピュータが実用化される時代を見据えた長期的な暗号安全性を担保しています。なお、製品名「SaltGrain」は、「Salt(ハッシュセキュリティの強化を意味する暗号用語)」と「Grain(ABEが実現する粒度の細かいアクセス制御)」を組み合わせた命名です。SaltGrainのアーキテクチャは、ABE暗号エンジン・ポリシー管理基盤・鍵管理システムを中核コンポーネントとして構成されています。既存のIAM(Identity and Access Management)システムなどとのAPIによる統合を前提とした設計となっており、既存システムへの導入障壁を低減しています。また、ABEの主要な差別化機能の1つである複数の認証局との接続を可能とすることで、複数組織にまたがるデータ共有においても、各組織が独立したポリシー管理権限を持つアクセス制御を実現しています。
■AI エージェント時代のデータ保護基盤として
生成AI・AIエージェントの急速な普及は、企業のデータ活用に大きな恩恵をもたらす一方で、データセキュリティの観点から新たな課題を生み出しています。従来のセキュリティ設計は「人」がデータにアクセスすることを前提としていましたが、AI エージェントが自律的に大量のデータを参照・処理する環境では、アクセス主体の多様化と処理速度の飛躍的な向上により、意図しないデータ漏洩や不正利用のリスクが質的に変化しています。境界防御や人手による監視では追いつかない、新たなデータ保護の仕組みが求められているのはこのためです。
SaltGrainはABEの仕組みを活用することで、AIエージェントがアクセスできる情報の範囲を属性・ポリシーレベルで精密に制御します。その適用は複数のシナリオにわたります。
RAG(Retrieval-Augmented Generation)環境では、ドキュメントの検索結果をABEで暗号化した状態でAIに渡し、利用者の属性に応じて復号する方式を採ることが考えられます(図3)。これにより、同一のRAGシステムを使用していても、利用者の権限に応じて参照できる情報の範囲が暗号レベルで制御され、機密情報と非機密情報が混在するドキュメント群からの意図しない情報流出を防ぐことができます。マルチエージェント環境においては、役割の異なるAIエージェントそれぞれに対して、その役割に応じたデータだけを復号・入力として与えることが可能になります。
さらに、SaltGrainが備える復号ログ機構により、「いつ・どのAIエージェントが・どのデータに・どのような権限でアクセスしたか」を記録することができます。AIエージェントの行動を可視化・監査可能な状態に置くこのアプローチは、AIガバナンスの観点からも重要な意義を持ちます。AIワークフロー上の入力・出力双方を保護対象とすることで、「AIを安全に活用するための基盤」として機能します。
「データ活用とセキュリティのトレードオフをなくす」というSaltGrainの価値提案は、潜在顧客との対話においても強い共感を生み出しています。AIやDX(デジタルトランスフォーメーション)の推進を加速したいが、データの安全な取り扱いと活用の両立という課題に直面している企業・組織から大きな期待が寄せられており、多くの個人情報や機密データを扱う金融・医療・政府機関・製造業など、あらゆる業種においてその需要は広がりをみせています。

研究機関の新たな使命──InventionをInnovationへ、そして社会実装へ
2004年の一本の論文から始まったABEというInventionが、20年余りの歳月を経て SaltGrainというInnovationとして市場に届こうとしています。これは偶然ではなく、基礎研究が将来のトレンドを創造し得るという確信のもとで研究を積み重ねてきた結果です。NTT Researchがシリコンバレーに立地し、VCエコシステムやグローバル市場と直接接続できる環境にあるからこそ、Scale Academyはその第一歩を踏み出すことができました。
先端的な技術研究を基にした事業化には、通常の新規事業開発とは根本的に異なる困難が伴います。技術の優位性だけでは市場は生まれず、問題・技術・価値・顧客という要素がすべてそろって初めてビジネスが成立します。Scale Academyはこの事業化の本質を理解したうえで、Inventionが確実に事業価値を持つInnovationへと結実するための成功確率を高める知見と体制を組織として蓄積していきます。
基礎研究は、単に社会の課題を解決するだけでなく、まだ誰もみえていない将来のトレンドを先んじて創造します。そのようなInventionを、世界に実装されたInnovationへと変換し続ける場として、Scale AcademyはNTT Research 2.0の中核を担っていきます。
■参考文献
(1)https://www.iacr.org/testoftime/

(左から)Bennett Indart/Fang Wu/細井 正善




SaltGrainのプロジェクトを推進しながら事業化のノウハウを積み上げ、Scale Academyの取り組みをさらに具体化・拡大していく──その意気込みはチーム全体に共有されています。「Our work to upgrade reality」──この言葉を体現するScale Academyの挑戦と、そこから生まれる次の Innovationに引き続き注目していただきたいです。